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インタビュー

【PEOPLE】子どもたちに卓球の楽しさを教える小原秀元監督。「うちのチームは疲れたら遊んでもいいんです」

長野県松本市にある『JUPIC(ジュピック)』は、創立40周年を迎える歴史あるチーム。365日、24時間使用可能な卓球場をホームに持ち、卓球を楽しむことをモットーに指導しているのが小原秀元監督だ。笑顔が絶えない子どもたちの姿に目を細めながら、今日も左手にラケットを握る。

 

取材当日に練習に来ていたJUPICの子どもたちとコーチ陣

 

子どもたちの練習を行う小原監督。笑顔で楽しく指導をしていた

 

−小原さんが卓球を出会ったのはいつになりますか?

小原秀元(以下・小原) 私は中学校では吹奏楽部でした。卓球を始めたのは松本県ヶ丘高に入学してからと遅かったんです。きっかけは高校受験の夏期合宿で卓球台があって、友達と打ってみたら楽しくて、おもしろかった。それで高校で卓球部入ったんです。

松本県ヶ丘高の卓球部は、長野県の県立高校でトップクラスの強豪校だったと、入部してから知りました。卓球を楽しみたくて、楽そうだと思って入った卓球部でしたが、練習は毎日ありました。

私は右利きですが、顧問の山崎次良先生に左手でラケットを持つようにアドバイスされて、左ペンで始めました。高校3年の最後のインターハイ予選では長野県で団体、シングルス、ダブルスで優勝しました。2年半で県のトップになれたんです。

 

−利き腕ではない左利きで始めて、2年半で長野県で3冠王とはそうとう厳しく練習されたのではないですか?

小原 練習は早朝練習とか、連続2000本ラリーとかがありましたが、厳しい練習をしたという思い出はありません。卓球部の雰囲気は上下関係が厳しくなく、先輩とはお友達感覚で接していました。ただ、4~5人のOBの方々が、毎日のように練習場に来て、指導してもらいました。早朝練習にも付き合ってくれました。

同期は、南澤、臼井、牧野、中村、藤原、川船と7人でした。県大会の団体戦で優勝しようと、みんなで目標をもって一致団結して卓球に取り組んでいました。高校時代は、卓球の仲間といるだけで楽しかったですね。

卓球の仲間との良い思い出とか、OBの皆さんから指導してもらった事とかが、今の卓球人生の原点となっています。

卒業してから、その仲間とは、毎年必ず1回以上顔を会わせています。母校へ部旗を寄贈したり、試合の応援に行ったり、一緒に旅行に行ったりなど、もう50年連続になります。

 

−高校卒業後は明治大に入学されたと聞いています。

小原 東京都武蔵野市にあった「平沼園」に4年間過ごしました。総監督は兒玉圭司さん、監督は四ケ所喜太郎さん、同期は、斎藤、豊川、高木、大宮、遠藤の6人で、ひとつ上に前原正浩さんがいました。

古い体育会系の名残が残っていて、厳しい上下関係や、うさぎ跳びなど、下級生の時は辛く苦しい寮生活でした。今になっては、とっても良い思い出となっています。

4年生の時、秋季関東学生リーグ戦の専修大との最終戦、ラストで勝ち、一部に残留することができました。リーグ戦で勝ったのはこの一勝のみですが、一番の思い出となっています。

 

−大学卒業後はどうなされたのでしょうか?

小原 ちょうど長野で「やまびこ国体(1977年開催)」がありまして、長野に戻ってこいと言われて、松本に戻りました。やまびこ国体に出場して、翌年の全日本社会人選手権では、日本代表として世界選手権で活躍された仲村渠功さん、西飯徳康さんに勝つことができ、シングルスでベスト8に入ることができました。

私は各年代で戦型を変えておりまして、高校時代は左ペンドライブ、大学1年では左シェークドライブ、3年ではバック側に粒高を貼って、フォアはドライブでバックはカットという変則的なスタイルにしました。当時、左利きでこのような戦型は日本にはほとんどいかなったでしょうから、対戦相手はやりにくかったと思います。

 

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