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伝説のプレーヤーたち 渋谷五郎「眠っている才能はいくらでも あるはずなんですよ」


渋谷のフォア(上写真)とバック(下写真)のグリップ。大粒の一枚ラバーを両面に使用していた

打つより早くカットが返ってくると言われた。

バウンドの頂点をとらえて、直線的に入っていく。

 

渋谷が大学に入学した1956(昭和31)年、日本で初めて開催される世界選手権が東京体育館で行われ、渋谷は毎日通って観戦した。男子の日本対ルーマニア戦で、日本を敗戦の崖っぷちから救った伝説の一戦、田中利明対ガントナーの14-20からの大逆転勝ちもその目に焼き付けた。もちろん応援していたのは日本だったが、ガントナーのカットプレーには大きな影響を受けたという。

明治大の合宿所である平沼園では、少しでも時間があれば練習。遊ぶ時間もお金もなかったが、とにかく1年365日、一日も欠かすことなく、全力で練習しなければ気が済まなかった。一年の関東学生春季リーグでは、村上との両輪でチームを2部から再び1部へと押し上げた。

渋谷は現役時代を通じて、両面一枚ラバーのカットマン。裏ソフトではなく、一枚ラバーのみを使用するカットマンの最後の世代だった。

ライオンというメーカーの一枚ラバーが、大粒でよく飛び、気に入っていたが、メーカーがなくなってしまい、試行錯誤を経てバタフライの一枚ラバー「オーソドックス」の一番大粒のものを選んだ。ラケットもバタフライで、硬くて球離れが良いものだった。

「粘るだけのカットスタイルでは勝てない」。そう思い定めた渋谷の用具選びとプレースタイルは、極めて独創的なものだ。

プレーの生命線となったのは、カットのコース取り、そして攻撃。早い打球点のカットでコースを突き、相手を押し込むためには、球離れが遅い弾まない用具ではダメだった。当時のカット用ラケットの定番だった柳材のラケットなどは全く使えなかった。

「相手にパッと打たれたら、パッと反応する。そういう卓球を大学2年くらいから追求していきました。

攻撃選手には『打つより早くカットが返ってくる』と言われた。バウンドの頂点をとらえて、上からカツーンと直線的に入っていくカット。弾むラケットとラバーで、高い打球点でカットするわけだから、少しでも感覚が狂うと入らなくなる。だから一日も練習を休みたくなかった」

攻撃より速い、常識破りのカット。それはすでに、中学時代にひと目見て憧れた、ネットの手前でフワリと浮き上がる優雅なカットではなくなっていた。

もちろん、連続で強打されて、台から離された時のプレーも想定して練習した。厳しい体勢であろうと、相手に強打されない厳しいコースへ返球する。台に背中を向けてバックカットをしても、ラケットに当たりさえすれば狙ったところに入るというレベルまで、空間の把握能力を高めた。

両ハンドの攻撃にも、渋谷は打つ直前まで相手に読まれないフォームであるべきだという、彼一流の理論を持っていた。バックツッツキのバックスイングで、インパクトの直前にバック強打に転じる。フォアカットのバックスイングから、突然フォアの強打が飛ぶ。

当時の卓球雑誌に、バックツッツキの構えからの強打の連続写真が掲載されている。それはバックツッツキの連続写真の最後に、バックハンドの写真が紛れ込んでしまったようにしか見えない。打球の直前まで全くわからない。

大学2年の関東学生1部リーグ秋季では、優勝決定戦の専修大戦で単複2点を挙げ、4-2での勝利に貢献。それから何度も連続優勝の記録を作ることになる明治大の、初優勝の瞬間だった。さらに全日本学生では、決勝で小松原正巳(関西学院大)を破り、村上とのダブルスと合わせて単複2冠に輝いている。

2年生にして、名実ともに学生卓球界のトップ選手へと成長した渋谷五郎。翌58年に東京で行われた第3回アジア競技大会でも、代表入りが濃厚だった。

「新聞なんかには、当然代表入りするだろうという感じで書かれていた。ところが、ふたを開けてみれば落選。あれは本当に悔しかった。落選の報告を聞いて、すぐ練習したのを覚えています」

なぜ、渋谷は代表に入ることができなかったのか。それは当時の全日本チャンピオン、ペンカットの成田静司の存在が大きかった。全日本チャンピオンを代表から外すわけにはいかないが、日本チームにカットは2枚いらない。中学・高校と県大会決勝で渋谷を破った天才・成田が、またも渋谷の前に立ちはだかったのだ。

大学3年では東京選手権で優勝したものの、本人曰く「一年間全くダメ」。完全なスランプで、全日本選手権でも早いラウンドで敗れた。スロースターターで、いつも出足が悪かったのだが、朝一番の試合ということもあり、最後まで調子が上がらなかった。「カットが安定してきたことで、自分の中で冒険しようという気持ちがなくなっていたのかもしれない」と渋谷は振り返る。翌59年の世界選手権ドルトムント大会の代表にも選ばれなかった。

一方、それまで個人戦の成績では渋谷に遅れをとっていた村上が、この全日本選手権で3位に入賞。ドルトムント大会の代表になり、荻村と組んだダブルスで優勝している。

この59年大会から隔年開催となった世界選手権。二年に一度のその巡り合わせが、渋谷の競技人生にも微妙な影響を与えることになる。

最終学年の大学4年生となって、渋谷は明治大卓球部のキャプテンに選ばれた。

周囲を引っ張らなければならないという責任感が、自分を変えるひとつの転機になった。苦手にしていたランニングにも、部員たちとともに率先して取り組んだ。

この年、渋谷は12月の全日本選手権に向けてひとつの決断をしている。

年末の全日本にはなぜか相性が悪い。その理由を考えた時、夏に練習をやり込んだ疲れが出てくるのだという結論に至った。全力で練習をやり込まないと気が済まない男が、思い切って夏に練習量を落とし、そして秋口からガッと練習量を上げていった。半年がかりで、全日本に向けて照準を合わせていった。

「全日本開幕の一週間前から練習量を落として、行ったこともない喫茶店に行って、名曲を聴いてリラックスしたりしましたね。そうやって精神をコントロールしていったら、本番でもピンチをピンチとも思わなくなった。後から考えて『ああ危なかったな』というくらいだった」

当時、全日本の組み合わせというのは、開幕前日くらいにならないとわからなかった。しかも厳正な抽選ではなく、代表クラスの選手たちの強化の一環として、組み合わせもかなり自由に動かすことができた時代だった。

左利きの選手を苦手としていた渋谷は、全日本での左利きの選手との対戦を想定して、サウスポー対策を積んだ。コースを指定したシステム練習なども当時からやっていた。果たして、全日本では初戦から左利きとの対戦。6試合を戦う中で、4人が左利きだったという。

決勝は荻村伊智朗との対戦。すでにベテラン選手の域に入りつつあった荻村だが、そのプレーは今も渋谷に強い印象を残している。

「現役時代に対戦した選手で、印象に残っているのはやはり荻村さんや田中(利明)さん。すごい強打を放つ選手は他にもいたけど、荻村さんや田中さんと試合をすると、技術や戦術の幅に苦しめられた」

当時、世界代表の合宿などがあると、シェークカットの藤井基男や渋谷はヨーロッパのカット型の仮想選手として、必ずトレーナーに呼ばれた。その時に荻村や田中とやると、結構良い勝負になって「これはいけるかな」と思う。平沼園で練習試合をやれば勝ち越すこともある。

ところが、いざ大会本番になると、ふたりは戦い方をガラリと変えてきた。強打で鳴らす田中が全く攻撃をしなかったかと思えば、荻村は低く浅くボールをコントロールして、カットや攻撃を封じてきた。練習試合を巧みに「撒き餌」にして、大会本番で勝利を収めていったのだ。

しかし、全日本にピタリと照準を合わせ、メンタルをコントロールしてきた渋谷には、「荻村さんに対してはこう戦う」という明確な作戦があった。大会前にやる試合は絶対に参考にしないと心に決めた。荻村の揺さぶりにも全く動じることなく、3-0のストレートで勝利。ついに天皇杯を手にした。

ダブルスでも村上とのペアで初優勝。大学4年生のこの年、1959年が渋谷五郎の競技人生のピーク。心・技・体が最も充実した一年だった。

そして、日本が世界選手権ドルトムント大会で7種目中6種目を制しながら、花形である男子シングルスを中国の容国団に明け渡した年でもあった。

急激に迫りつつあった中国の足音。1961年の世界選手権は、中国・北京での開催が予定されていた。

明治大の主軸として、同期の村上とともに明治大の第一期黄金時代を築いた渋谷。写真は関東学生リーグで大谷(日本大)と対戦した時のもの

 

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