卓球王国 2021年4月21日 発売 vol.289
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「変えて」 強くなる  世界の卓球を「変えた」男──荻村伊智朗

現役の後半から指導者としても活動した荻村。写真右端はスウェーデンのアルセア

 

コーチとしてスウェーデンの

卓球を「変えた」荻村。

そのスウェーデンが世界の卓球を変えた

 

荻村伊智朗はコーチとして、また卓球理論家としても数多くの著書を出し、日本の卓球界を刺激し続けた。また、単に日本を強くすることだけでなく、中国やスウェーデンにもコーチとしても指導に赴き、世界卓球のレベルアップに貢献している。

荻村が世界チャンピオンになった後に、荻村自身と田中利明(55・57年世界チャンピオン)がモデルになって製作した16㎜フィルム『日本の卓球』が海を渡り、中国選手が教材用として使い、後の世界チャンピオン荘則棟などの代表選手が大いに参考にし、かつ影響を受けたと言われている。

また、荻村は59年にコーチとしてスウェーデンに渡った。当時のヨーロッパ卓球というのはゲーム(試合)をすることが練習であり、今のような分習法やシステム練習というものがなかった。ましてや屋外でのトレーニングというのはもってのほか、という時代だった。そこに、体操、ランニング、分習法などの基本練習、サービスからのシステム練習を荻村は導入しようとした。以下は『笑いを忘れた日』(荻村伊智朗著・卓球王国刊)から抜粋。

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59年にスウェーデンから、私に「コーチに来ないか」という話がかかりました。もっと練習量を増やしたいし、コーチだと相当練習ができるだろうという気持ちがあったので引き受けました。

第一回は59年の11月から60年の4月近くまで滞在しました。59年から世界選手権は2年に一度の隔年開催になったので、世界選手権の終わった年の暮れに出かけて行って翌年までコーチをし、帰ってきた一年間は次の世界選手権に備えるというようなパターンで、合計4回スウェーデンにナショナル・コーチとして行きました。

最初の時、ストックホルムの郊外のボーサンという所のスポーツ学校で、合宿を始めました。スウェーデン卓球協会も大変喜び、十人の精鋭を集めました。私はやるからにはちゃんとやりたいということで、私が実際の現役選手としてやっているのと同じような内容の高度なことを始めたのです。一番最初はウォーミングアップ、あるいはランニング、それから体操です。

そう続けていくうちに、スウェーデンランキングのナンバー2の選手が、突然体操をやめて着替えを始めたのです。それで「アレッ、何するのかな」と思っていたら、すっかり着替えが終わってから、私のところにツカツカと来て、「オギムラ、おれはこの合宿に卓球の選手として来たのだ。体操の選手になりに来たんじゃない。こんな合宿はたくさんだ。おれはこれで帰る。この週末にはストックホルムでトーナメントがある。そこでおまえとおれとどっちが強いか、一丁雌雄を決しようじゃないか」と啖呵を切って帰ったのです。そのぐらい異質なハードトレーニングを私はスウェーデンに持ち込んだのです。

私の考えは、今の世界のトップを行くスウェーデンでは当たり前のことですが、「卓球の一流選手になる前にスポーツマンとして一流になれ」ということです。今では、テニスのトレーニングも卓球にならってハードで科学的なトレーニングを採用し、ボルグやビランデルなどの名選手を生み出しているスウェーデンですが、当時、卓球もテニスも、それをやること自体がトレーニングになる、という考えを採用していました。

それで、次の合宿の時になったら、「ちょっと故障が出た」とか、あるいは「仕事が忙しい」とか、「学校だ」などと言って、だんだん人数が少なくなりました。

3回目の合宿がステンレススチールの産地として有名なエスキルスチューナという町で行われました。そうしたら、みんなよほどこりてしまったらしく、なんと一人しか来ないのです。その一人、来てくれたのがアルセアという17歳の少年でした。

世界チャンピオンの私は、たいして上手でもない17歳の少年と二人で、一週間の合宿をやることになりました。そのとき「コーチに来なければよかったかな」という気持ちを正直言って持ちました。この少年はカットをやらせたらネットから15センチも高いカットしか出せないとか、やや臆病で守備的で、体が固く、動作もにぶいということもありました。でも腹を決めた私は、彼と一週間毎日8時間ぐらいずつ攻撃力を増やす練習をしました。

コーチというのもいろいろな見方をされるものだと思います。結局は実績が出ればわかるのですが、いくらがんばっても短期で実績が出ない場合があります。そういうときは、ただ実績だけでたたかれるということになります。私もたたかれるか、認められるか、結果としては評価されたわけなのですが、やったことは誠心誠意やっていたのです。

そうしたところ、アルセアが3カ月後にスウェーデン選手権で、古いベテラン選手たちを破って優勝したのです。そこで初めてスウェーデンの卓球界の雰囲気は変わりました。若い選手たちが新しい練習法を採用するようになり、 オギの合宿に行きたいというようになったのです。アルセアはのちにヨーロッパチャンピオンになり、ダブルスの世界チャンピオンにもなり、それからナショナル・コーチにもなりました。

コーチとして私が成績をあげた第一の場所はスウェーデンです。そこでそういう戦略的な取り組み方を試みたり、あるいは選手の世代交替とかいろいろなことに遭遇しながら、経験を積みかさねていって成功したのです。

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その後、スウェーデンは71年にステラン・ベンクソンが世界選手権で優勝、73年には世界選手権男子団体で優勝。また89年に中国を破り世界の王座に就くと、ワルドナーとパーソンを中心とした「スウェーデン時代」を築き、2000年まで世界をリードした。スウェーデン卓球の全面的な練習方法と、選手の創造力を引き出す戦術、練習方法は、80年代から90年代まで世界の卓球の潮流となり、ヨーロッパだけでなく、日本にも大きな影響を与えた。

そのスウェーデンの卓球の礎を築いたのは荻村伊智朗だった。まさに荻村はスウェーデンの練習、合宿、考え方、戦術、すべてを「変えた」男である。