卓球王国 2021年4月21日 発売 vol.289
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「変えて」 強くなる  世界の卓球を「変えた」男──荻村伊智朗

2度の世界チャンピオンになった荻村伊智朗。スポンジで最速最強の卓球を目指し、のちにスポンジが禁止になると裏ソフトに転向し、オールラウンドプレーヤーに転身した

 

「敗戦」と「挫折」が

荻村の卓球と精神を変えた

選手としても偉大だった荻村伊智朗は高校1年で卓球を始め、5年後に全日本選手権で優勝し、6年後には世界選手権で優勝している。この6年間のすべての時間を卓球のために費やし、倒れるまで疾走を続けた。しかし、順風満帆に成長したわけではない。急激に強くなっていく過程で、荻村を変える出来事があった。それが「笑いを忘れた日」と記されている。

荻村は、1952年に当時権威のあった全日本軟式選手権で優勝し、国体の東京代表にも選ばれ、全日本硬式選手権、そして世界選手権に向けて駆け上がっていこうとしていた。ところが、全軟優勝の1カ月後の全日本硬式の東京予選の代表決定戦でカットマンの山口という選手に敗れた。

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全日本軟式でも優勝したし、国体や都市対抗にも代表になっているので、東京の予選会では第一ブロックの第一シード選手になりました。ということは、予選に出場した選手の中で、一番強そうだと認められたことを意味します。

隅田川べりの城北体育館で予選がありました。予選の決勝で、明治大学の山口という、裏ラバーを二枚重ねたラケットで、猛烈なスピンのかかるくせ球のカットマンと当たりました。山口はカット王国青森の出身で、私に負けず劣らず“練習の虫”と言われていました。軟式選手権で優勝した当時の戦法ならいいのですが、私はオールフォアで動いてロングで粘るというやり方を本格的に練習し始めてから一カ月しかたっていません。それがやはり付焼刃だったことはすぐわかりました。ひとたまりもなくミスが出て、第一ゲームを失いました。それであわてて、もとのやり方にもどしたのですが、これも一カ月以上練習していないので、うまくいかなくなって負けたのです。私はぼうぜんとして観覧席に帰ってきて、クラブの連中の前で立ちすくんでしまいました。

当時、都立大にはまだ卓球部がなかったので、私は吉祥クラブに所属していました。クラブの連中のところにもどり、だれも何も言えず、深い深い沈黙がありました。まだ体育館は他のコートのプレーが続き、どよめきや拍手が盛んでしたが、私たちの周りは深い淵のような沈黙に何分も何分もつつまれていました。

すると、私が夜いつも都立大からの帰りに練習しに行っていた日暮里の東京卓球会館で稽古をつけてくれていた渡辺という選手が、だいぶ年上の人ですが、わざわざスタンドまで上がってきて「荻村君、残念だね。あれだけ一生懸命やったのにねえ」とひとこと言ってくれたのです。

私は後にも先にもこのとき一回だけなのですが、「ワーッ」と人前で泣きました。そういうやさしいことを言われたこともあって、いろいろな思いがこみ上げてきて、ついこらえにこらえていた気がくじけて人前で声を上げて泣いてしまったのです。

人前で泣くことは、私にとってもっとも恥ずかしいことでした。なんとか声と涙をおさめたところへ、のちに世界選手権のロンドン大会の監督として同行してくれた長谷川喜代太郎という東京卓球連盟の理事長が、観覧席の私のところにきて「荻村、スポンジはやめなさい。スポンジではカットは打てない。だからスポンジでは世界選手権代表にできない。いくらやっても無駄だからやめなさい」と言ってくれたのです。そのときは、私は泣きやんでいましたが、無念さで混乱していましたのであまり素直にうなずけなかったのです。「ありがとうございます」というのが精一杯でした。

そういうことがあって家へ帰ってきて、その日の日記に、たいへんキザな言葉なのですが、「笑いを忘れた日」と書きました。「もう卓球をやめられない。負けてやめるのは挫折だ。今までの一心不乱の何年間が挫折だなんて承知できない。必ず納得のいくプレーをやってからやめよう」と思ったのです。

また、ラバーについても同じ考えでした。いったんやりかけたものを、中村、山口、という二人のカットプレーヤーに負けたからといってやめてどうするか。スポンジを使ってもうこれ以上はだれがやってもできないところまでやろう。それでもだめならラバーを変えようと考えました。

「日本代表にできない」という長谷川さんの言葉は恐ろしくもありましたが、 なにくそという気持ちが恐さに勝っていたのです。もちろん、一晩まんじりともせず、あの雲仙の決意を反省してみたのですが、それは正しかったと思いました。そして「親にもあれだけ苦労をかけてやってきたのに、心が乱れたり、試合で負けることは、ふだんが甘いのだ。だから平常心をもっときたえなければいけない」と思ったのです。

『笑いを忘れた日』より

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荻村伊智朗は当時使用していたスポンジラケットを批判されながらも、それは「変えなかった」。スポンジで世界を獲るという信念があった。

しかし、「笑いを忘れた日」によって、自分の卓球に対する決心を固め、練習や精神面を変えた。荻村はその後、強い相手を求めて、東京都立大(現首都大学東京)から日本大へ転学し、猛練習を始め、翌年の全日本選手権で優勝し、54年の世界選手権優勝まで一気に駆け上がっていった。ひとつの「敗戦」と「挫折」が彼を変えた。

1954年世界選手権で優勝。緻密、かつ豪快なプレーだけでなく、ある時には占い師の元に通い、人相を研究するなど、巧みな心理戦も得意とした荻村伊智朗

 

荻村伊智朗・おぎむらいちろう

[元国際卓球連盟会長・世界選手権で12個の金メダルを獲得]

1954・56年世界チャンピオン。選手時代から「51%理論」など斬新な卓球理論を展開し、「速攻三原則」「ハイリスク・ハイリターン戦術」などの理論を構築。指導者としても数多くのチャンピオンを育て、のちに日本人初の国際競技連盟の会長として、国際卓球連盟会長に就任。卓球の改革に突き進んだ