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インタビュー

卓球を知り、卓球を描き続ける男。肌で感じたインターハイの迫力

神奈川県相模原市に生まれ、中学時代までは野球をやっていた加治佐。外野手だったが、本人曰く「万年ベンチ」。神奈川県立相模原高校に入学後、何か他のスポーツをやりたいと考えた時、「卓球ならできるかな」と卓球部に入部した。
しかし、加治佐の予想は卓球部の練習初日から裏切られる。「運動不足もあったんですけど、初めて卓球部で練習した日の帰り道、歩道橋の階段を登るのがえらくしんどかったのを覚えています。卓球も結構ハードだなと思いましたね」(加治佐)。

高校時代のプレースタイルは、先に述べたようにカット型。当時、チームにはカット型の選手がいなかったことから、高校から卓球を始めた加治佐は顧問の先生から「有無を言わさず」カット型にされたのだという。「最初はカットが何なのかもわからずにカットマンをやっていましたね」と加治佐は笑う。

高校から卓球を始めた者にとって、大会での1勝の壁は厚い。加治佐も大会では1勝できるかどうかというところだったが、顧問の先生は熱心で、練習試合や練習会をよく組んでくれた。当時県下で随一の強豪だった湘南工大附高にも一度練習会で行ったことがあり、「ヤバい人たちがいるな」と強豪校の雰囲気をヒシヒシと感じたという。

「ぼくはあまり運動が得意ではなかったので、ある程度打てるようにはなったけれど勝てなかった。それでも部員もみんな良いやつらだったし、今でも繋がりがあります。毎日の練習も楽しかったですね」(加治佐)

インターハイ会場で選手のプレーを見守る加治佐。神奈川県立相模原高校で卓球部に所属し、カットマンとしてプレーした

高校を卒業後、加治佐はしばらくラケットを置くことになる。学校の教師を志し、大学では教職課程を履修して教育実習にも行ったが、卒業後は教材の制作・販売を行う会社に就職。しかし、最初はまず営業に回されるのが新入社員の常。営業成績がなかなか上がらず、ほどなく退職した。

「会社を辞めて、逆に気持ちがでっかくなったかもしれません。それまでは『どうせ無理だろう』とか、『堅実にいったほうがいいんじゃないか』と考えていたんですけど、せっかくならやりたいことをやってみようと」

バットを振り、ラケットを握りながら、加治佐の頭の片隅にずっとあった小さな夢。それは漫画家になること。小さい頃からずっと絵を描くのが好きで、見様見真似で漫画を描き続けていた。

最初に原稿を持ち込んだのは、ずっと愛読していた『週刊少年ジャンプ』の編集部。二度、三度と食い下がって原稿を持っていくうちに担当がつき、2〜3作目には新人の登龍門となる『手塚賞』で佳作入選。そこから1年目で漫画家としてデビューを果たした。まずは一路順風、上々の船出だった。

デビュー後には、国内外で高い人気を誇る大ヒット漫画『NARUTO』の作者、岸本斉史のアシスタントも3年ほど経験した。年齢は加治佐のほうがひとつ上だったという。
「当時は岸本さんもまだ『NARUTO』の連載を始めた頃。東京に出てきたばかりのお兄ちゃんという感じでしたけど、自分にとってはすごく勉強になった時期でした。アシスタントをしている間に『NARUTO』がアニメ化され、爆発的に売れていくのを目の当たりにしました」(加治佐)

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