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「選手とゴロゴロしながら話をするのが楽しかったですね」日本の卓球選手をドイツで支えた今村さん

自分ではわからないけど、
ぼくは日本人ですよ(笑)

●ータマスに入って40年、ヨーロッパに行って38年ですが、こんなに長くタマスにいると思ってましたか? しかもドイツにこんなに長くいるなんて。
今村 ドイツに長くいる計画は立ててなかったですよ(笑)。

●ー誰に聞いても、今村さんは日本人のようでいて日本人じゃないし、でもやっぱり日本人的な部分もありますね。昔からそんな感じですか。
今村 自分ではわからないけど、ぼくは日本人ですよ(笑)。本社にいる日本人とここ(ドイツ・TBE)にいる日本人ではちょっと違います。梅村、木村もちょっと違いますね。ぼくも本社にいたら辞めていたかもしれない。

●ー昔の小さくて面白いタマスとは違って、今は人気もあって入るのも難しい会社ですから。
今村 いつの間にか入るのが大変な会社になりましたね。

●ー今だったら、今村さんみたいに英語は苦手という人はドイツに行かせないでしょうね。
今村 そうですよ。ぼくは今だったら書類審査で落とされています(笑)。そういう時代だったんですね。

●ーたまたまなのか、運命的なものか、今村さんはドイツのタマスで活躍したわけです。
今村 ドイツにいさせてくれた。ある程度任せてもらえた。ああしろこうしろという指示はあったけど、好きなようにやらせてもらった感じはあります。

●ーいつくらいからTBEの人が増えたんですか?
今村 2010年にディストリビューター(代理店)システムを変えた時ですね。店員も社員になりましたから。あの時は大変でしたね。あの時、TBEの社長でしたけど、ぼくが社長になる前に(システム変更は)決まっていたんです。ぼくも知らないまま社長になった。聞いた時には「これから大変な仕事をやるのか」と。人の恨みだけ買うような仕事でしたね。目の前でショップの人に泣かれたりしましたね。
ただ経営的なことで言えば、円高もあったし、1990年代後半の2、3年間は「これは(TBE)やばいな」ということがありました。
「ブライス」もヨーロッパでは売れてなかった。ヨーロッパでは値段も高かった。

●ー為替で円高の影響をモロに受けたわけですね。
今村 そうです。その後、「ブライス」と「テナジー」がうまくつながりましたし、今は円安で助かっています。

●ー2008年に「テナジー」が登場して、卓球市場の潮目が変わりましたね。
今村 その時期に(スピード)接着剤も禁止になりましたしね。いつESN(ドイツラバー)が追いかけてくるのかなと考えていたし、早く「テナジー」の先のラバーを開発しなければいけなかった。商品開発って、新商品が出たらしばらく仕事がないように思うかもしれないけど、すぐ次の研究は始まるんですね。ただ、この先、何を作るんだという感じはあります。もう(性能の)限界値まで来ていますから。

 

TBE社長時代の今村さん

 

国際的なブランド作り。
「タマスはどういう会社なのか」

●ーこの「バタフライ」というブランドはどうしてこんなに強いブランドになったんでしょうね。
今村 ぼくがドイツに来た頃は、「タマスは他社より優れた商品があるわけでない」とか、「今のバタフライは眠っている象だ」と言われていた。「早く目を覚ませ」とか。当時はラバーも他社と違うものではなかったし、他の商品を見ても他社より優れているものは特別なかった。何がうちがすごいんだろうとわからなかった。
でも、モノじゃなくてブランドなんだなと。うちがよそよりも先んじてやっていたのは国際的なブランド作りなんだと思います。ブランドの話をすると広告宣伝とかロゴの話とかなるけど、「タマスはどういう会社なのか」。そういう意味のブランディングです。ヨーロッパの人は逆に「バタフライってこういうブランドだぞ」と教えてくれました(笑)。国外でのブランディングは創業者(田舛彦介)は気にしていたんでしょうね。

●ー日本ではイメージもそうだけど、商品に不良品がないとか、性能が安定しているとか、「バタフライ商品は安心」という意味のブランディングが確立されていますね。
今村 ヨーロッパの場合は、ヨーロッパ製とか中国製のものも売っていますけど、中には日本製がいい、バタフライ製がいい。5千円でなくても3万円のバタフライのラケットが良いと言う人もいます。最近増えている感じがします。

●ーそれにしても40年間は長いですね。
今村 昔は好きなようにららせてもらったから続いたんでしょうね。会社からは契約とかでお金を使いすぎるなとは言われましたけどね(笑)。

●ーまあ、国の数も違いますからね。
今村 そうなんです。日本は1カ国だけど、ヨーロッパは50カ国あり、アフリカも50で、中近東もイラン以外はTBE担当なんですよ。全体の協会の3分の2はTBEが担当です。それだけのナショナルチームがテリトリーの中にあるんです。契約の仕事も多いわけです。

●ー何が一番楽しかったですか?
今村 それは選手とゴロゴロしながら話をするのが楽しかったですね。ヨーロッパジュニアの大会とかに行って、子どもたちとその辺でゴロゴロしながらラケットやラバーの話をするのが好きでした。

●ー用具好きなのかな。
今村 前はウエア、シューズ、ラケット、一部のラバーの開発に関わっていたので、勉強しないと話についていけなかったですね。みんなに使わせたいわけじゃないけど、バタフライを使ったことのない選手に説明したりしてました。

●ーそんなに用具好きというか、卓球の話が好きだったのに、退職して、これからどうするんですか。
今村 何をやるか、しばらく考えてみます(笑)。

●ーいくらビール好きの今村さんでも昼間から飲むわけにはいかないでしょ?
今村 日本みたいにどこかに飲みに行くとか、誰かと飲むということはないんですよ、こっちでは。例えば今野さんと会うから、その場所でビールを飲むわけで、ぼくがひとりで飲むことはないんですよ。せいぜい2本くらい。

●ーぼくらの中の今村さんのイメージは、いつもビールを飲んでるイメージだけど、あれは誰かと常に飲んでいたということですね。
今村 ひとりで黙って飲めるもんじゃないですよ。まだアル中じゃない(笑)。

●ー庭いじりとか、卓球のコーチをするのかな。それとも奥さん孝行かな。
今村 コーチはしないし、いじるほどの庭もないし、奥さん孝行と言ってもたまに飯を作るくらいですね。これからじっくり考えます。
●ー長い間、お疲れさまでした。日本の卓球選手と関係者がお世話になりました。ありがとうございました。

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7月上旬に今村さんにインタビューをした際に、「8月くらいに帰ります。東京にも行きます」と言っていた。「じゃ、東京で浩二、聖也、隼とかを誘ってビールでも飲みましょう」と約束。

その後、水谷隼にインタビューして今村さんとの思い出を語ってもらった。
彼は最後に「『お疲れさまでした、そして、ありがとうございました!』と今度、今村さんが日本に帰ってきたら言いたいです。自分が全日本やワールドツアーで優勝しても、軽く『おめでとう』と言われるくらいで、いつも反応薄くて少し傷ついてましたが、リオでメダル獲った時には今までで一番喜んでくださって嬉しかったです。東京オリンピックが終わってからまだお会いしてないので、金メダルを持って会いにいきたいです」とコメント。
そして、7月末に今村さんが帰国し、急きょ食事することが実現。当日、「あれ、隼、メダルは?」と話を振ると、モジモジする水谷隼。「まさかインタビューで言っていたのに金メダルを忘れたのか」と非難を浴びた。
そして、食事会を終えようとしたタイミングで、いきなりバッグから取り出した東京五輪の金メダル。「まるで芸能人のような演技だ」と言われながらのサプライズ演出が下の写真だ。
「今村さんと一緒に食事した回数はぼくが選手で一番だ!」と自慢しながら、今村さんの胸にかける金メダル。今村さんは少し照れながらその日、一番の笑顔を見せていた。

<今村さんインタビュー・終わり>

 

水谷隼に東京五輪の金メダルを胸にかけてもらった今村さん

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