2002年以降の坂本、岸川の世代から、その後の水谷や高木和卓を含め、数多くの有望選手がヨーロッパに向かった。彼らは学校の授業を受けずに、卓球に没頭していた。普通の学生が学ぶべきものをスキップしているのだから、正直知らないことも少なくないが、海外でもまれた対応力や言葉などは貴重な経験の中で覚えたものだ。
中学、高校生の段階でプロフェッショナルな選手活動をしてきた選手たちが、岸川のように現役を退く時期を迎え、第二の卓球人生を歩もうとしている。
安定したサラリーマン生活に入っていくプロ選手は多くはいない。特殊な環境下で育った選手たちは、プロコーチとしてのスキルを身につけるのだろうか、Tリーグなどのフロントで選手をサポートするのだろうか。選手をやめても卓球への情熱やモチベーションをどう維持できるのかを測りつつ、第二の卓球人生を模索していくことになる。
第一線を退き、コーチの道に歩もうとする岸川聖也の前に、松下浩二は別の道を提示した。
今までお世話になったタマスと、憧れであり、恩人でもある松下からのオファーの間で「男・岸川聖也」は揺れ動いていた。
岸川にとってタマスと松下浩二は、どちらも義理を欠くのできない会社であり、人物だったために、苦渋の決断を迫られた。
営業マンを全国に張り巡らして、講習会や現場への指導でトップ選手を活用したいVICTASと、営業マンを数多く置かず、その代わりにトップ選手を使ったトップダウン方式で、初・中級者にブランドと商品を浸透させるタマスのやり方。
その会社の営業方法やマーケティングで、アドバイザリー契約をしている選手や指導者の使い方は変わってくる。
そして、岸川聖也が選んだのは「タマスとの契約継続」ではなく、「VICTASとの新規契約」だった。
タマスからのオファーも悪くはなかった。「第一線を退いた自分にはもったいないオファーをいただいた」(岸川)。
「彼は日本の若手がドイツに初めて渡り、強くなった第1号の選手。彼は人知れずドイツで苦労し、彼が頑張る後ろ姿がバタフライというブランドを示してくれた。岸川という選手は特別です」(タマス関係者)。
長く日本の卓球界を支えた男の契約メーカーの移籍は、他の競技やヨーロッパの卓球界からすれば当たり前のことかもしれないが、日本の卓球界にとっては衝撃だった。「バタフライの岸川聖也」が、バタフライと決別した瞬間だった。
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