卓球王国 2024年4月22日 発売
バックナンバー 定期購読のお申し込み
トピックス

TSPを忘れる大阪の卓球人はひとりもいない。「ピン球=TSPやった」と阪井理事長

 

大阪卓球協会の平尾信次会長(右)と阪井一利理事長

 

優勝を決めたあとに、「大変な時期に開催していただいた大阪のみなさん、ありがとう」と感謝の言葉を残した石川佳純(全農)選手

 

「ピン球=TSPやった。

東京に遠征行く時におみやげとして

TSPのピン球を持っていったことも

あるんですわ」(阪井)

 

そういう大阪の卓球土壌を支えてきたのは現在のVICTASだと阪井理事長は説明してくれた。「私たちが卓球を始めた頃から、ピン球=TSPやった。東京に遠征行く時におみやげとしてTSPのピン球を持っていったこともあるんですわ」。

そう語る阪井理事長は実は1970年代に高校卓球界で頂点を極めた興国高校の出身。カリスマ指導者・田中拓(故人)の家に下宿しながら猛練習に打ち込み、インターハイの団体優勝メンバーとして名前を連ねたひとりでもある。

「よく田中先生からのお使いで難波のTSP本社に行ってました。2階に上がり、コンコンとノックして『失礼します』と入ると、『声小さい! 挨拶のやり直しや!』と言われました」と笑う。「TSPの鈴木社長(元社長)はじめ、たくさんの社員の方に可愛がられました。ある時には、行くと、奥でボールの選球をしていて、『ああ、しんどいわ。おい、阪井、手伝っていきーや』とか2時間くらいずっと選球していたこともあります」。

家族的な関係であり、当時から大阪卓球協会=TSPだった。TSPの上六卓球センターには関西学連が間借りし、ベテラン連盟も3階にあった。そして狭いながらも、昔は上六卓球センターで国体予選などの試合も行っていたと言う。「ぼくもソックスからウエアまで全部TSPで、よく『TSPが歩いとるわ』と言われてました。大きな大会があれば、TSPの社員の人たちが裏方で手伝ってくれたんです」。

2016年にNPO法人として組織が改変され、公平性を求められ、TSPだけでなく、ニッタクなどの他のメーカーとも協力関係を築くことになる大阪卓球協会だが、そこにいる人たちはTSPとの人間関係を忘れなかった。

TSPから受けた無償の恩。ここは「人情の大阪」なのだ。TSPからのサポート、少年少女時代に身につけたTSP。難波のTSP旧本社を忘れる大阪の卓球人はひとりもいない。

そして、TSPからVICTASに名前の変わったブランド。「ある程度、名前が変わるのは予測してました。いつかそうなると。でも、私の心にはTSPとの思い出がたくさんあるんですわ」と阪井理事長は語る。

それほど大阪の人にとってTSPというブランドの存在は大きかった。彼らは大阪で作られるピン球が誇らしかった。

 

現在、TSPのブランドはVICTASが受け継いでいる。スタイリッシュなブランドに生まれ変わっても、大阪の人たちは「うちらはTSPを忘れへんで」と言う。あのどこか派手で、どこか笑えるような泥臭い商品(失礼!)。それがTSPだった。

VICTASの社長に復帰した松下浩二は今でも東大阪市に自宅を置いている。大阪の人情の深さを知っている。大阪の卓球人には「VICTAS、カッコつけるんやないで!」と言われるかもしれないが、新生VICTASも大阪を忘れていない。このブランドのルーツは大阪。そして、大阪を愛しているブランド、それがVICTASなのだ。 (文中敬称略)

 

大阪卓球協会 with VICTAS[PR]

 

 

 


関連する記事