実業団選手として「仕事と卓球の両立」を体現してきた鹿屋良平(リコー)。1月に行われた全日本選手権を最後に、25年間の卓球人生にピリオドを打った。
インターハイチャンピオンでもある母・みゆきさん(旧姓:上園)と卓球をしていた兄二人の影響で5歳の頃から卓球を始めた鹿屋。地元・鹿児島の松本卓運で腕を磨き、小学生時代は全日本バンビ・カブ、全国ホープス優勝など数々のタイトルを獲得した。
中学は鹿児島を離れて宮城・仙台育英秀光中に進学。現在は野田学園高を率いる橋津文彦監督が当時仙台育英秀光中の指導をしており、「橋津監督との出会いはターニングポイントだった」と語る。
「小学6年まではバック面に一枚ラバーを貼っていたのでバックドライブは打てなかった。中学1年になってバック面を裏ソフトにして橋津先生にバックハンドを教えてもらって、練習を積み重ねたらだんだんバックハンドが上達していった。この出会いが無ければバックハンドに自信は持てなかったですし、今の成績はないと思います」(鹿屋)
中学3年生までは仙台育英秀光中で練習に打ち込んだ鹿屋だったが、仙台育英学園高のスポーツ特待生枠の廃止に伴い、橋津監督が山口県・野田学園中学・高校に赴任することが決定。それに伴い鹿屋も高校1年の時に野田学園高に転入した。
「仙台育英は練習場や食事の面ですごく恵まれていたんですけど、当時の野田学園は練習場まで車で1時間くらい移動しないといけなかった。決して恵まれている環境ではなかったけど、かぎりある環境で努力する『なにくそ精神』がありましたね」
限りある環境の中で真摯に練習に取り組んだ鹿屋はメキメキと実力を伸ばし、高校2年時の高校選抜では12連覇中だった青森山田高をストレートで破り初出場・初優勝、高校3年時のインターハイでは学校対抗準優勝、シングルス・ダブルスで3位入賞を果たした。
高校で成績を残した鹿屋は当時関東学生リーグ2部で戦っていた法政大に進学。全国から猛者が集う1部校ではなかったが「2番目の兄が法政大に通っていたこともあり、たまに練習に行っていて身近に感じていたっていうのと、明治大や専修大はすごく強いのでレギュラーになれる力は自分にはないと思っていた。それだったらちゃんと試合に出られて、自分のためになるような環境に身を起きたいなと思っていました」と、自分なりの考えを持っての進学だった。
入学当時は2部だった法政大だが、鹿屋とともに生田裕仁(青森山田校卒)や田代周大(倉敷工業高卒)らが入部したことで戦力が大幅に強化。1年春のリーグ戦では全試合1番とダブルスに起用され10戦全勝の活躍で法政大1部昇格に貢献。大学4年時に主将として臨んだ最後のインカレでは、法政大で52年ぶりとなるベスト4進出を果たした。
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