−−その後は日本卓球協会に就職しましたね。きっかけは?
私が大学3年生の時に、一度全日本のお手伝いをしたことがありました。よく学生たちが行っている受付などのボランティアとは違い、「演出チーム」というのがあるんですけど、そこにスタッフとして携わらせていただきました。そこでは決勝の時の演出の仕方とか、音響のチェックだったりとか、そういうのを間近で見ていて「面白いな」って思ったのが、日本卓球協会に就職したいと思ったきっかけです。
日本卓球協会も毎年新人をとっているわけではなくて、私も今は下に穂積(和也)が入ってきましたけど、それまで多分6年くらい一番下でやっていましたね(笑)
あと、私は社会人になっても自分の実力では卓球を続けることは難しかった。でも、「卓球に何か恩返しをしたいな」っていう思いは強くあったので、それもありますね。
−−日本卓球協会ではどのようなお仕事をされているんですか?
今は国内事業担当で日本全国を飛び回ってます。基本的には、47都道府県卓球協会・連盟の方々と連絡を取り合ってます。今だと次行われる国内の1発目の大会って「全日本ラージ」ですね(取材当時)。なので、全日本ラージが開催される(一社)滋賀県卓球協会の方と連絡を取り合う。次が岩手県で行われる「全国レディース」で、今回タマスさんが新たに特別協賛で入ってきてくれたので、タマスさんとも連絡を取り合ってます。
国内大会の運営とマーケティングの両方を担当しているという感じです。全日本ホープス・カブ・バンビの部(以下、ホカバ)で言えば、全農さんとの向き合い。47都道府県の協会だけでなく、協賛していただいているところとも大会運営のためのやりとりをしているという感じですね。
−−めちゃくちゃ大変ですね。
大変ですが、やりがいがあります。卓球に携われる仕事ができて幸せです。
−−その役職は協会に入ってからずっとですか?
入社当初は指導者養成委員と、競技者育成委員のパスウェイや、ブロック研修とかをやっていて。そこもブロック研修なので、全国各地を回っていたので出張は多かったですね。
−−指導者養成っていうのは具体的にどんなことをするんですか?
オリンピアンなどの講師を呼んで、講師とやりとりをしてスケジュールを立てていく感じです。いろんなところと連携してっていう意味では、今やっている業務ととても近いと思います。
−−その業務はどれくらいやっていたのでしょう?
私が2016年に入社して、3年くらいは競技者育成をやっていました。19年に国内大会担当になったらいきなりコロナになってしまって。1、2年は大会ができずに苦しい状況が続いていて、今ようやく通常通りに大会が開催できる日々が戻ってきたという感じですね。
−−コロナがある程度収まってきた状況下でも、観客を入れずに無観客開催が続きました。その頃に対する批判とかは結構あったのではないでしょうか
そういう言葉はネットでももちろん見かけていたし、無観客が続いてしまってこちらも苦しいなと思うことが多々ありました。そういう中で、「帯同者制度」などを作って、1チーム何人までだったら帯同者として会場に入れますよ、とか、1人でも多くの人が会場に入れるように試行錯誤しました。
やっぱり子どもたちの大会で親が試合を見られないとか、そういうのは私自身もすごく苦しいなっていう思いがありました。ただ、体育館の上限人数も決まっていて、その体育館でやらせてもらう以上どうしようもない状況でした。その時点での参加人数的に、1人につき帯同者を2人に増やしてしまったら、上限をオーバーしてしまう。なので、1チームにつき1人までの帯同者制度がほとんどだったと思います。
全ての体育館にまず制限者数を聞いて、スタッフだったり、運営、審判員の人数を確認して、そこからどれくらいだったら帯同者を入れられるのかを計算していました。正直、ここはかなり苦労しました。あの時期が正直一番しんどかったですね。
−−大変なスタートでしたね。。
ぼくが担当になって1年くらいはまだ有観客で開催できていたんですけど、いきなりコロナで実施できなくなって……。
でももう全部有観客での開催が決まりましたね。やっぱり一番うれしいのはホカバが有観客開催になったことですかね。それはやっぱり、弟(礼博・日本大)がホカバに出ていた時に、両親は車で神戸まで行って、試合が終わったらUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行って帰ってくるみたいな。その時私はまだ大学生で、試合は見に行けていなかったんですけど、そういう遠征などで楽しむ姿を間近で見ていて、親の気持ちっていうのをわかっていた分、(大会が中止になった時は)辛かったですね。
−−弟さんとはよく一緒に練習をしていたと聞きました
弟の礼博とは、中・高の6年間はずっと夜2人で練習をやっていましたね。僕の家には地下に卓球場があるので、毎日夜の10時半から11時半、まあ1時間ですけど毎日私と打っていました。私はその頃はもう社会人になっていますね。
小学生の時の彼の最高成績は東アジアホープスの代表ぐらいで、ホカバで8に入ることはありませんでした。「表彰台に上がりたい」っていうところからスタートしているんですよね。そこで弟と毎日1時間、弟が通っていた東京の安田学園まで片道1時間半かかるので、練習が終わって家に帰ってきて、10時半から11時半まで二人で練習していたという感じです。
−−弟さんはすごく真面目な方ですね
凄く真面目でアイドル好きです(笑)。
これは弟がすごいんですけど、例えば、高校1年生の時、「関東大会で優勝したい」って言っていて、私が「何か一つ努力したらいけるんじゃない?」と言うと、いつもよりも1時間早く起きてサーブ練習をしたり、ランニングをしたり。そういう努力ができるやつです。大会後には試合のビデオを見て反省練習を行い…の繰り返しでした。その努力があり、2023年の全日本選手権(混合ダブルス)で3位になり表彰台に上がることが出来たのだと思います。最近では簿記2級に合格して、混合ダブルスで3位になった時くらい喜んでました(笑)
−−兄の存在が大きいですね(笑)
って言ってくれていたらうれしいんですけどね?(笑)
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