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インタビュー

厳しくも優しい注目の若手監督 −中島健太−

 一度は卓球から離れたが、恩師の言葉で教員の道に進み、進徳女子高(広島)に赴任した中島健太。部員1名、物置きスペースでの練習からスタートし、3年目で全国大会に導いた中島は、礼儀とあいさつを重んじる指導で日本一を目指す。〈文・中川学〉

 

広島駅からバスで15分ほどの市内にある進徳女子高は、明治41年に創立され、113年の歴史を誇る女子高だ。同校の卓球部監督を務める中島健太は、広島県呉市の出身。父親の影響で小学生から卓球を始めてすぐに夢中になったが、近くに子どもの卓球チームがなく、1時間ほどかけて県内の可部町まで練習に通う日々を送っていた。

 

「木下明仁さんが監督をしていた可部町卓球スポ少には、同級生に木下さんの息子の木下祐介というホープスの全国チャンピオンがいて、1歳上に大谷準也さん(上宮高→専修大)、1歳下に中野祐介(東山高→早稲田大→シチズン時計)がいるなど、全国トップレベルの選手たちがいました。中学に上がる時に毎日通うのは大変だということで、チームメイトの大谷さんの家で預かっていただけることになって、それからは毎日可部町で練習することができるようになりました。木下さんや大谷さんには言葉では言い表せないほど感謝しています」(中島)。

 

中学時代には全中に出場したが1回戦で敗退。「まわりは強かったけど、自分だけ弱かった」(中島)。木下の指導は厳しく、特にあいさつや礼儀に対しては口うるさく注意されたという。高校進学にあたり中島は、「木下さんよりも厳しい環境に身を置きたい」という決意で、愛知県の杜若高に進んだ。

杜若高の教員で当時監督の新留正作も「人間形成と心」を重んじる人物で、「2人の恩師からは多大なる影響を受けた」と中島が振り返るように、その後の人生に大きく関わってくる。

 

「杜若高に入学すると先輩に全日本ジュニアでベスト8に入る先輩がいました。県内では打倒愛工大名電高、全国では日本一だった青森山田高を倒そうという気持ちで、新留先生も自分たちも毎日がんばっていました。ただ、自分が高校3年の時にインターハイ予選で名電と桜丘に負けて、先輩たちが築いてくれていた学校対抗の連続出場が途絶えてしまいました。後悔しても後悔しきれず……。

それでも学生時代を振り返ると、小、中、高と全国トップのチームメイトがいて、また、“上を倒しに行く”というハングリー精神のある中でもまれたことは、のちに指導者になった時に大変役立っています」

大学は「関東に行ってチャレンジしたい」という思いで駒澤大に進学。「他の大学とも交流することができて、その人脈が今も続いています」

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