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インタビュー

厳しくも優しい注目の若手監督 −中島健太−

普段の練習場は学校の体育館2階にあるスペースで行われている

 

そんな中島は、大学4年の全日学を最後にラケットを置き、卒業後は地元広島の医薬品販売会社に就職した。「いきなり米子支社の配属になって、1年目で営業成績で社内一になりました」と順風な社会人生活を送っていた。2年に差し掛かったころに新留から電話があり、「一度こっちに顔を出せ」と言われた。

 

「杜若高に行くと新留先生から『営業1位で給料もいいだろうし、これから出世もできるだろう。銭か生き様のどちらかを選べ。こっちに帰って来い』と言われました」

 

中島が教員免許を持っていないと言うと、新留は「事務として採用することもできる」と言ったが、「でも、高校生を指導する上では教員という立場のほうがいろいろなことが見える」と続けた。中島は「生き様」を選んだ。

会社の仕事をしながら夜に通信制大学で勉強し、教員免許を取得していく。「当時は仕事後は毎晩接待があり、土日もゴルフ接待でしたから、それらが終わってから論文を書いたり、他県に試験に行くなどして数年かけて教員免許を取得しました」

 

教育実習は杜若高に行くことになったが、2~3週間ほど会社を休まなければいけなくなってしまう。「1日でも抜けてしまうと営業として仕事が回らなくなってしまいます。2週間も空けるなんて会社にもお客様にも迷惑をかけることになるので、退社することを決めて、退社後に教育実習に行きました」

教員免許を取得し、教育実習を終えた中島だが、「地元広島に恩返しがしたい」という思いを新留に伝えて、最終的には広島に戻ることになる。そして進徳女子高に赴任することになったが、当時は卓球部はなかった。

 

「私が広島に戻って進徳女子高の教員になるということを聞いた方の娘さんが進徳女子高に入学してきてくれました。1年目の部員はその生徒の1名だけでスタートです。学校での練習は毎日自分と行い、大会にも2人だけで行きましたが団体戦とダブルスには出場できないので、午前中は観客席にいることが多かったですね。自分としては必死で指導していましたが、その生徒にとっては部員ひとりだけというのは辛かったと思います。もし彼女が退部していたら、その後の進徳女子高卓球部はなかったと感じています」

 

翌年に2人が入部して部員は3人になったが、団体戦に出場するためにはあとひとり足りない。クラスから部員を募集して初心者がひとり入ってくれて団体戦が組めるようになり、県大会でベスト8入りした。そして、中島の赴任3年目に卓球部が強化指定部となり、県外から選手を勧誘することができるようになった。

 

「当時の校長には、3年で全国に行かなかったらクビにしてくださいと言っていて、3年目に全国選抜に出場することができて、約束を果たすことができました。現在の三浦達哉校長にも卓球部に対してとても理解をいただいていて、良い条件と環境を作っていただいています。校長を始め、学校関係者の方々には感謝しきれません」

 

三浦校長は「中島先生とは同じ社会科の教員の先輩として、校長になる前から応援していました。部員ひとりから始めて、ずっと熱心にやってきているのを間近で見ていましたから、校長になってもより応援していきたいという思いがあります。

卓球部には日本一になってもらいたいですね。もう手が届くところまでは来ていると思っていますので、私が本校にいる間にぜひ日本一を見たいです」と暖かく、強く見守っている。

中島の良き理解者でもある進徳女子高の三浦達哉校長

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