卓球王国 2024年12月20日 発売
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インタビュー

「100点のない中で、100点を目指す」。日本卓球リーグの事務局長は、インターハイ2冠の元トップ選手。

―――高校は吉田安夫監督(故人)が率いる名門校の熊谷商高(埼玉)に進みました。
「兄が熊商に行っていたこともありますが、小学生時代に平沼園に練習に行かせてもらった時に渋谷さん(浩/のちに全日本チャンピオン)が全中でシングルス3連覇していて、その渋谷さんも熊商で活躍していて。岩崎さん(清信/のちに全日本チャンピオン)もいましたし、熊商は憧れのチームでした。
また、不順な動機として熊商に行けば『父の厳しさから開放される』という思いも少なからずありました。ただ、実際に熊商に入ったら、吉田先生の練習はもっと厳しかった(笑)。それでも、練習後の下宿生活やオフの日は楽しかったですね」

 

―――高校での成績は?
「1年の時はベンチ外で、2年からベンチ入りしました。吉田先生が熊商から埼工大深谷高に行かれて、ぼくたちも2年のインターハイ後に埼工大深谷高に転校しました。3年のインターハイは学校対抗(団体)優勝、ダブルス優勝、シングルスはベスト8という結果でした。
先輩も同期も後輩も中学の全国チャンピオンなどがいる中で、ぼくはアジアジュニアには出ていましたが彼らに比べるとトップ級ではなかった。両親からは『最終学年で一番良い成績を出すようにがんばれ』と言われていて、自分もそういう思いで焦らずにやっていました。シングルスでは優勝できませんでしたが、インターハイで2つのタイトルを取れたことは、自分の中ではできることをやりきったという気持ちはありました。
大学は明治大に行きたいと思っていて、吉田先生からは『全国優勝しないと難しい』と言われていて、関東大会のダブルスでは優勝しましたが、吉田先生に『全国優勝だ』と発破をかけてもらって。そういうこともあって、インターハイのダブルスで優勝できたんだと思っています」

 

―――明治大では小学生時代から交流のある佐藤真二さんがコーチとしていましたね。
「監督は渋谷五郎さんで、まだ現役選手だった真二さんがコーチでした。ぼくが大学を卒業するタイミングで真二さんが監督になり私がコーチをさせていただきました。
明治大卒業後は三井生命に声をかけていただき入社し、4年ほど在籍しました。当時の三井生命は日本リーグに加盟していましたが、卓球中心ではなくて仕事をしっかりと行ってから練習という毎日でした。今のように労基法が厳しくなかった時代なので、17時まで仕事をしてから練習に行って、21時に練習を終えてまた仕事に戻って日付けが変わるまで仕事とか、そういう日もありました。

全日本選手権の前日も日付けが変わるまで仕事をしていたり。仕事中心ではありましたが卓球をやらせていただけたことに感謝しています」

 

―――三井生命退職後は大手卓球専門店の国際卓球に務めました。
「三井生命の卓球部が休部になり、将来は卓球の指導をやりたいという思いがあったので、真二さんに相談しました。「明治大のコーチが続けられる環境を探してもらえませんか」と。それで国際卓球さんを紹介していただき、お店での仕事と明治大のコーチの仕事を半々でやらせていただくことになりました。
国際卓球ではショップで5年、ル・クールという卓球場で12年、合計17年勤務させていただきました。

日本卓球リーグ・ビッグトーナメント会場にて

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