卓球王国 2022年6月21日 発売 vol.303
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インタビュー

「成績でしか評価されないジレンマ」「何がしたいの? 『卓球だよ』って」異能の男・西東輝は卓球をとことん“考える”

●12歳、家族への感謝と覚悟を背負って東京へ

---生い立ち的な話を聞きたいんですが、中学から北海道を離れて実践学園中に進みましたが、迷いはなかったんですか。

 ぼくの生まれた地域は本当にど田舎で、地元の中学校に卓球部がなかったんです。昔から団体戦が好きで、関東学生リーグとかインターハイにすごく憧れがあって。でも、地元の中学に進んでも団体戦には出られないので、両親を説得して実践に行きました。

 ぼくの中ではこれが大きな決断で、一番上の姉が専門学校に進むのを諦めて、自衛隊に就職してまで、ぼくの学費を捻出してくれて東京に行かせてくれたんです。実家は三代続く建具屋なんですけど、後継ぎ息子のぼくが東京に行くとなると、家業を断たむことになる。それは小さな街の建具屋がひとつなくなるということですよね。姉のこともあるし、家のこともあるし、街のこともあるし、それでも行くのかと周囲に言われました。でも、最後は両親と姉が応援してくれて東京に行くことになった。そのことには感謝してもしきれないし、覚悟を持って北海道を出てきたことが、へこたれずに卓球で生きてこられた絶対的な要因です。

 

---実践での生活はどうでした?

 寮生活でしたけど、高校の先輩たちに助けられましたね。中学の仲間って、チームの中でのライバルでもあるじゃないですか。だから、どうしてもギスギスしてしまうところがあったんですけど、それを緩和してくれるのが高校の先輩たちでした。アンドロの山﨑(譲治)会長なんかはまさにそういう先輩でしたね。ホームシックになったり、もやもやした気持ちを抱えていた時には助けてもらって、今でも大変お世話になっています

 

---そのまま実践で高校に上がる選択肢もあったのに、遊学館に進んだのはどんな理由だったんでしょう。

 「厳しいところに行きたい」って思ったんですね。6年間、実践の環境でやる道もあったけど、環境を変えることも必要だなと思って。あとは何より植木(大)先生の人柄です。初めて会った時に「この人に教わりたい、一緒に戦いたい」って直感的に思ったんです。それは間違っていませんでした。

 

---遊学館ではインターハイ、高校選抜でも活躍してましたね。

 でも、高校時代の団体戦は苦しみしかなかったです(笑)。団体戦が好きって言いましたけど、ぼく、高校3年の直前まで団体戦で全然勝てなかったんですよね。1年の選抜から2点起用してもらって、2点落としなんて何回やったかわからない。普通、エース起用のぼくが2落としたらチームも負けるじゃないですか。でも他のチームメイトが勝ってくれて、ずっと3-2で勝ち上がっていくんです。それが気持ち的にしんどくて。間違いなく遊学館史上、ぼくが一番団体戦で負けた選手だと思います。

 

---負けても負けても、ずっと起用法が変わらなかったというのは、普段の取り組みへの信頼からなんでしょうね。

 どうなんですかね。勝てないぼくを使い続けるって、リスクしかないじゃないですか。だから、植木先生と金谷さんには感謝しかないです。高校2年の選抜でようやく勝てて、コーチの金谷(昌宣)さんに「やっと勝ったな」って言われたんですけど、あれを思い出すと泣けてきます。金谷さんにはほんとに夜中まで練習に付き合ってもらって、テスト期間で練習が早く終わる時もずっとマンツーマンで卓球を教えていただきました。

高校2年の選抜では当時無敵の青森山田から単複2勝をあげた

 

●「ジャージを着るのも恥ずかしい」から「北陸大の西東輝」になるまで

---卒業後は東京富士大に進んだけど、北陸大に転入した。

 東京富士大にいた頃は朝晩10キロずつ走っていて、練習して、勉強もして睡眠時間は3時間ほどで、自分の限界に孤独に挑戦している状態でした。でも、トレーニングをしすぎた結果、故障してしまった。怪我した瞬間に自暴自棄になってしまって、だんだんと「もうどうにでもなれ」って思うようになってしまいました。復帰するまで1年かかるし、選手としてプロを目指していくのは難しいと考えて、指導者になるため、教員免許が取れる北陸大に転入しました。

 

---当時の北陸大って全国的には無名に近かったと思うんですけど、同年代の中でトップ集団にいたプライドみたいなものはなかったんですか?

 それはありました。トップ集団とまでは思っていませんでしたが、石川に出戻りのような感覚だったので。2月に石川に戻ってきて、3月に石川県団体っていう試合があって、そこで初めて北陸大で試合に出たんですね。やっぱりプライドがあって、北陸大のジャージを着るのを恥ずかしいと思ってしまったんです。それで3月のまだ寒い中、開会式に半袖、短パンで出たんです。そんなことチームメイトには言えないじゃないですか。この話は人に初めてしたかもしれないです。

 でも、そこから考え直して、入った以上は自分が北陸大を強くして、このジャージをカッコいいと思えるようにすれば良いと思うようになりました。その後、全日学のダブルスで3位になった時には表彰式にちゃんとジャージを着て、胸を張って出席できました。「全国3位ならOKだろ」って(笑)。でも、最初はそれくらいジャージを着たくなかったんですね。

全日学ダブルスで3位となり、北陸大に初の全国メダルをもたらす

 

---「北陸大の西東輝」っていう現状を受け入れられた転機みたいなものってあったんですか?

 ありのままを受け入れるしかないなって。どれだけ「自分はこんなもんじゃない」って思っていても、現実は違うわけで、今の自分が現実なんですよね。その頃、『赤めだか』っていう映画を見たんですね、立川談春の。その中で「現実は正解なんだ。時代が悪い、世の中が悪いの言ったところで仕方がない」っていう言葉が出てきて、「あ、俺のことだ」って(笑)。それで、せっかく北陸大に来たんだから、大学の名前を上げてから卒業しようと。

 「現実が正解」っていうのは今も大事にしていますね。自分でどう思っていても、現状は違うんだから、どう足掻いたってそうでしかない。現実を受け入れて、乗り越えていけば良いとはいつも思っています。「やるしかない」っていう心境に辿り着くまでは時間がかかるけど、一度決めて奮い立たせたら早いんですよ。そこは自分の強みかなと。

 

---現状を受け入れられたことで、モチベーションも上がった。

 北陸大では、木村(信太)監督をはじめ、チームメイトと本当に一緒になって頑張る楽しさを学びました。最初は拾っていただいて、編入させてもらった立場なのに、どこか図に乗っている自分がいたんですよね。そこを木村監督がうまく操縦してくださって、今でもやはり頼りにしている兄貴分といいますか、恩師ではあるんですが特別な関係だと勝手に思っています。自分の中でいっぱいいっぱいになっているときに北陸大の存在は僕の中では非常に大きいです。

現在は北陸大のコーチも務める

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