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水谷隼「ジュン、その言葉のすべて」 2007年全日本初優勝。全インタビューvol.1

ベンチに入ったのは青森山田高校の吉田安夫監督(故人)

 

やっぱり伝説の選手になりたかった。記録を残したかった。

ジュニアと一般の両方で優勝するのは最後のチャンスだったし、モノにしたかった。

 

●——青森での練習というのは自分にとってどういうものだろう。

水谷 青森山田は日本で一番の練習量だと思うし、吉田先生も日本一の名監督だと思うから、環境が整っている。ただ吉田先生もぼくらをみんな見られるわけではないので、自分で考えて課題を見つけることが必要です。吉田先生も世界を目指すためにはどうしたらいいかと考えて、指導してくれています。

 

●——ドイツでの最終目標は?

水谷 やるからにはチームの1、2番手でやりたいけど、やれる自信はまだないです。

 

●——今は3番手として12勝2敗という圧倒的な勝率だから物足りなく感じるのでは?

水谷 そんなことはないです。やっぱりチームに貢献したいし、チームメイトにも助けてもらっているから。

 

●——最終的に「こんな卓球をしたい」というイメージがあるんだろうか。

水谷 ミスが少なくて、自分も楽しくて、観てもらっている人にも楽しい卓球をしたい。やっぱりラリーを続けたい。その上で勝ちたい。

 

●——チャンピオンになって、日本のエースとして見られると思うけど。

水谷 チームを引っ張るという感覚はない。実力的には韓陽さんのほうが上だと思うから、ぼく自身、もっと力をつけなければいけない。

 

●——会見の時には自分に足りないのはパワーであり、速い攻めという部分も意識しているようだったけど。

水谷 攻めの速さを意識しても、リスクは背負わない。難しいボールをリスクを背負ってでも攻めるというのはやらない。

 

●——この1年間で一番成長した部分というのはどこだろう。

水谷 サービスからの3球目の得点力が一番上がりましたね。そんなに後ろに下がらなくなった。その時の調子によって、プレースタイルは変わりますね。ある時は、フォアハンドばかり使ったり、ある時は両ハンドで攻めたりする。

 

●——君の卓球を見ていると、プレー中の時間がワルドナーのように、ほかの選手と違う気がする。つまりラリー中で、相手よりも時間的な余裕があるために、打つ直前に相手が見える。だから相手の逆を突いたり、打ちにくそうなところにボールを送ることができるな稀有なタイプに思えるけど。

水谷 打つ時に相手を見て、どこを待っているのかなと読んで、打つ直前に変えることはできる。ただ、たとえば、フォア前のボールに対して、ストレートに打つのが難しい時、相手がクロスに待っていると感じると、その難しいストレートを狙ってミスが出ることがある。見えすぎるために、待たれているのがわわかってしまうために、そこでストレートに打つとか、同じクロスでも強く打つとか、回転をかけないで打つとか、緩急の変化をつけなきゃいけないと思ってミスすることがあります。

 

優勝を決め、観客席に手を振る水谷

夢はオリンピックに出て

メダルを獲ること。

それにもっと卓球をメジャーにしたいですね

 

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大会後に行われた青森山田学園の祝勝会の時に、母、水谷万記子さんが息子・隼をこう評していた。「小さい頃からどんな相手でも競り合いになる。簡単に勝てるような相手でも競って、卓球を楽しんでいる子だった」。

 「彼は度胸があって、しっかりしている。隼は相当強い選手に勝てるが、それが持続しないのが課題」と吉田総監督は言う。

ラリーを楽しむあまり、スコアを気にせず、集中力が切れたように見える部分がある。いわゆる天才肌の選手だ。しかし、時に天才肌の選手は優勝できず、大成できないものだが、水谷はドイツのブンデスリーガや青森山田のように、自分の欲求を満足させられる環境の中で強いアスリートに進化していった。

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●——卓球を始めたのは? 小さい頃は卓球以外のスポーツもやっていたよね。

水谷 5歳です。小学3年から6年までは一番きつかった。学校行って、そのあと習字やピアノをして、そのあと卓球の練習をして、帰ってから勉強して、親にも怒られて殴られて、泣いて……それが小学3年、4年の頃。サッカーは小学1年、2年でやって、ソフトボールは小学4年から6年までやってました。ソフトボールは試合とかも出てました。卓球と掛け持ちで。楽しかったですけど、最後は卓球を選びました。やっぱり卓球しかないかなと思ったし、団体競技は向いてなかった。

 

●——将来の目標と夢は?

水谷 夢はオリンピックに出てメダルを獲ること。それにもっと卓球をメジャーにしたいですね。自分が全日本や世界で勝てば、取り上げられるし、そうやって卓球をもっとメジャーにしたい。

 

●——卓球をやっていて、どんなところが楽しい?

水谷 ラリーが楽しいし、相手の逆を突いて、してやったり、という瞬間が楽しい。

 

●——卓球の中で一番大切にしている部分は?

水谷 やっぱり楽しさです。楽しく卓球をやることが大切です。未来の自分? 卓球をやるのが楽しいから、卓球を楽しくやって笑っているんじゃないですか。

全日本選手権での優勝の喜びも冷めやらぬ、その3日後に、水谷隼はドイツへと飛び立った。成田空港へ移動する車内でインタビューを行った。「卓球王国でひとりだけのインタビューは初めてですね」「ぼく、表紙ですか? 変な顔じゃなく、ふつうの顔のやつを使ってくださいね」。どこにでもいるふつうの高校生のような無邪気な笑顔を見せた。

 

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海外での暮らしと、名門校での厳しい生活は、こののんびり屋の高校生を確実に大人にさせている気がした。「彼の理想像からすれば今の卓球は55%くらい。まだまだ強くなる」と監督歴50年以上、全日本チャンピオン6人を育てた吉田総監督は言う。果たしてこのサウスポーはどこまで強くなるのか。世界のトップへ行けるのか。

史上最年少記録で優勝した17歳。今回の優勝は、「水谷隼伝説」の序章に過ぎないのかもしれない。

(文中敬称略)

卓球王国2007年4月号より<2007年1月全日本選手権史上最年少の初優勝>

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■ 水谷隼 みずたに・じゅん

1989年6月9日生まれ、静岡県出身。

全日本選手権バンビ・カブ・ホープスでそれぞれ優勝、ジュニアで男子史上初の3回優勝、一般では17歳7カ月で優勝し、史上最年少の記録をうち立てた。青森山田高2年で、ドイツのブンデスリーガ1部『デュッセルドルフ』の3番手としてプレー。

05年世界選手権上海大会に日本代表として初出場し、09年の世界選手権横浜大会では岸川聖也と組んだ男子ダブルスで初のメダルを獲得。団体とダブルスで合計7個のメダルを獲得している。
五輪には08年北京で初出場し、16年リオ五輪で男子団体銀メダル、シングルスでは日本人初のメダル(銅メダル)を獲得し、日本中に卓球ブームも巻き起こした。
ブンデスリーガ、中国・超級リーグ、ロシアリーグを経験し、現在はTリーグで木下マイスターに所属。東京五輪の日本代表

 

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