卓球王国 2024年11月21日 発売
バックナンバー 定期購読のお申し込み
インタビュー

平野友樹が現役を引退。「これまでの卓球人生を振り返ってみて、自分らしい終わり方だなと」

気迫のあるプレーで活躍した平野友樹(協和キリン)が、昨年12月の日本リーグプレーオフ ファイナル4を最後に現役を退いた。今期は選手兼監督という立場でチームを牽引し、崖っぷちからファイナル4進出を決めたが、最後の舞台で平野は勝つことができなかった。

初めてラケットを握ってから24年。現役引退の思いと、これからについて平野に聞いた。

 

●昨年12月の『日本リーグプレーオフ JTTLファイナル4』を最後に現役引退となりました。今の気持ちを聞かせてください。

平野友樹(以下・平野) 後期日本リーグではシングルスで7戦全勝できて、チームに貢献することができました。その頑張りもあって(チームの)ファイナル4進出につながったと思うのですが、自分にとって最後の試合になったファイナル4で、ぼくは勝てませんでした。これまでの卓球人生を振り返ってみて、自分らしい終わり方だなと思いました。

 

●それはどういう意味ですか?

平野 これまでの自分の卓球人生では、頑張って頑張ってあと一歩まで行ってからチャンスを逃すことが多かったんですよね。首の皮一枚繋がってチャンスを手にしても、そこで勝ちきれないことが何度もあって……。現役最後のファイナル4もそうなったので、自分らしいと言う意味です。

たとえば、若い時の試合だったら、全日本ジュニアで調子が良くて決勝に進んだのに、肝心の決勝ではタジタジになってしまって自分のプレーが出せなくて負けたり。最後のインターハイでもライバルの青森山田勢が負けていく中で、一番得意にしていた同士打ちで鹿屋君(良平/現リコー)に負けてベスト8で終わってしまった。子ども時代から大人になるまで、そうした経験を何度もしていて、最後の最後もチャンスを活かすことができなかった。

 

●ファイナル4では優勝を狙っていたと思います。やはり、悔しさは残りましたか?

平野 もちろん、優勝できなかったので悔しい気持ちはあります。でも、その一方で最後までやりきることができたという安堵の思いもあります。というのは、(2007年度に)ファイナル4が新設されてからこれまで協和(キリン)は全大会に出場していたので、それを途切れさせることはできないという思いがあったからです。

選手兼監督して初めての前期日本リーグでは、ぼくがコロナにかかってしまってチームは途中棄権になり、7位という順位で終わりました。後期で上位に入らなければファイナル4の切符は手にできず、今はどこのチームが勝ってもおかしくないほど拮抗した状況の中で、チーム全員でファイナル4出場をもぎ取ることができましたから。

 

 

最後の大会になったファイナル4。日鉄住金ブレイザーズ戦のトップに出場した平野は、藤村に敗れた

 

●平野選手は昨年の全日本選手権が個人戦を最後にして、団体戦は今年度まで出場ということでしたが、それぞれの時期を分けたのはなぜですか?

平野 大きなところでは2022年に栃木国体があったからです。自分が生まれた栃木県のそれも故郷の鹿沼市で卓球競技が開催されるので、栃木に恩返しをしたいという思いがあって、個人戦引退後も団体戦の出場は続けました。

ぼくの中では、栃木県には卓球で恩返しができていないという思いがありました。中学時代の仙台、高校時代の山口、明治大、社会人になってからの協和と、ある程度プレーで恩返しをすることができたという思いがありますが、栃木だけにはできていませんでした。

肝心の国体では負けてしまって申し訳ないという気持ちはありますが、地元の方が観客として来てくれた中で、選手宣誓という大役をさせていただき、みなさんの前で鹿沼市で全力のプレーを見せることができたのは、少しは恩返しができたのではないかと思っています。

 

●引退については、どのくらい前から考えていたんでしょうか。

平野 3年前にコロナが流行ってから大会が中止になったり、無観客試合が続いたり、会社としても大会不参加という決断をしなければいけないこともあり、自分の中でいろいろと考えることがありました。このまま選手として続けていくのが良いことなのだろうかという思いも出てきました。自分のセカンドキャリアだけではなく、チームのことを考えた時にも、若手を活かすためには自分がどこかで区切りをつけて、選手ではなくても、コーチや監督という立場でチームを支えることが良いのかとも考えるようになっていったんです。2年くらい前のことですね。

コロナ禍が続く中で、ぼくの中で「スポーツは価値を生み出すことはできないのかな」という思いもありました。ぼくの感覚としては、アスリートとしてスポーツを行うことは、世の中の人たちに夢や希望や感動を与えることができるものだと思っていましたが、大会が中止になったり、参加できなくなったことで、歯がゆさがありました。もちろん、命や健康が第一だということは理解していますし、会社の判断についても理解しています。ただ、それでも……という思いが心のどこかであったのも事実でした。

選手としてはどこかで区切りをつけて、違う立場からチームを支えたり、または仕事の道に進んで行くことも考えるようになったんですよね。

 

●監督も今期で勇退ということになりました。

平野 はい。監督としては短い時間がでしたが、それを経験できたことで得られたものもありました。自分のことではなくて、人の教育や成長に携われることは大きなモチベーションになっていました。監督を経験できたことによって、チームと会社との連携など、これまで選手としてだけではわからなかった仕事が見えて、経験できたことは財産になりました。

誤解を恐れずに言えば、社会人になってから技術のレベルが急激に伸びるというのは難しいのではないかという思いがあって、でもマインドリセットをしっかりと行えることができれば、社会人からでも強くなれるとも思っています。

企業スポーツはすごく重要だと思っていますが、そこから世界に飛び出して行く選手を生み出すことは近年ではなかなかできていません。仕事とスポーツの両立の中、限られた練習時間でも高い意識を持って、質の高い練習ができれば強くなれると思うし、自分がどこに向かって行くのかという意識付けを若い選手に持ってもらうように接してきました。

選手は企業チームを選んだのだから、そこで強くなれる工夫をしなければいけません。ぼくは協和にはとてもお世話になり、世界選手権には出場することはできませんでしたが、国内でも海外のツアーにも出場させていただき、そこで良い試合を何度もできたことは誇りに思っています。

 

 

故郷の鹿沼市で開催された栃木国体。上位進出はならなかったが平野は全力のプレーを見せた

 

関連する記事