●高校最後の県総体の団体メンバーに抜擢されるも、「ぼくの負けでチームも負けてしまった」。
大学でも卓球を続けて、医療系大学の大会で入賞を果たす。
高校は、「ITを学びたい」という理由で地元の水島工業高へ進む。「弱小校でしたが、毎日声を出してみんなで一生懸命練習していた」というが、今思うと「強くなれなかったということは、がんばり方が間違っていたんでしょうね」と笑う。
高校時代は団体戦のレギュラーに入ったり、外れたりの繰り返しで、特に目立つような成績は残せなかったというが、高校3年の県総体では団体戦メンバーに起用された。「初戦はまわってこなくて、2回戦は勝つことができましたが、3回戦はぼくが負けてチームも負けてしまいました」。最後の夏は3回戦敗退。インターハイは夢の夢だったという。
大学は「将来は医療系のITの仕事がしたい」ということで、県内の川崎医療福祉大学に進学した。体育会の卓球部はなく、サークルでの活動をしていた同大学だったが、中西が入学と同時にサークルから体育会卓球部に昇格したという。
「大学に入っても好きな卓球をやろうと決めていましたが、中学、高校時代に比べると卓球に対するモチベーションは落ちていました。
日学連に登録したり、しなかったりという感じでしたが、医療系大学の大会には出場していました。レベルは低かったんですが、中国・四国大会ではシングルスでベスト4、全国大会でもベスト8に入ることができ、賞状をもらった時はすごくうれしかったですね。ただ、全国大会と言っても医療系大学の大会なので半分くらいは交流会も兼ねて行われていた感じです」
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