卓球グッズ2017より抜粋〈文=高部大幹 写真=江藤義典、奈良武〉
山本真理〈07年全日本社会人複ベスト8〉
非エリート集団、オークワ女子卓球部。
その象徴とも言える山本真理が、今年1月の全日本でラケットを置いた。
社会人選手生活21年。
彼女が握り続けた『日中号スーパー』の合板には、指の跡が、深く深く、刻み込まれている。
その凹みからは、力を抜くことなく愚直に駆け抜けた山本の情熱がひしひしと伝わってくる。
運命の1本との出合い。
力が入りすぎる山本の手そのものとなった
日本リーグで2部を中心に通算118勝をあげた山本が卓球を始めたのは、他の日本リーガーよりずっと遅かった。卓球経験者の母と兄の影響で、地元公立中の卓球部でラケットを握り始めた。
7つ上の兄がかつて使っていた日本式ペンラケットで練習を始めた山本。しばらくしてドライブに挑戦したのだが、どうにもボールを擦る感覚がわからない。「自分にはドライブの才能がなさそうだ」。そう思った山本は、2年生から表ソフトに変更した。
しかし振り返ると、ドライブの感覚が得られなかったのは非才ゆえと断言はできないだろう。何年も貼りっぱなしだった裏ソフトは、傷んでツルツルだった可能性が高かったからだ。表ソフト一筋で現役を終えたのが、正解だったのか否か。神のみぞ知るところだ。
山本は高校3年時にはインターハイシングルスにも出場。その時は特殊素材系の中国式ペン『タクシーム』(バタフライ/廃番)に変えていた。しかし、練習で入った快速スマッシュが、試合では炸裂することはなかった。
不完全燃焼の高校時代を経て、山本は阪和銀行に入行し、日本リーグにデビュー。ところがその年の11月に阪和銀行は経営破綻したため、大塚和彦監督の紹介でNEC九州に移籍した。
そして山本は運命の用具と出合うことになる。NEC九州の高木珠江コーチは、常に力みのある山本のフォームを見て思うところがあったのか、1本のラケットを手渡した。「あなたは人差し指をひっかける日本式のほうが、スムーズにプレーできるんじゃない?」
中国式のような丸型のブレードに、木とコルクが組み合わさった日本式グリップ。個性的な1本、『日中号スーパー』(バタフライ/廃番)には、これまた特異な変化系表ソフト『アタック8』(アームストロング)が貼られていた。
「これだ!」
3球打っただけで、山本は確信した。これが自分の新たな〝手〟になるのだと。
「強烈なスマッシュに憧れて弾む特殊素材ラケットにしたけど、自分の不器用さに合っていなかった。ところがその『日中号』だと、力の加減が下手な私が思い切り打ってもコントロールできる。ナックルという武器にも気付かされた」。〝自らの卓球の分岐点〟というほど、山本にとって大きな出合いだった。
命に等しいラケットを
心中するつもりで交換
99年、山本はオークワに移籍した。彼女が絶大な信頼をおく大塚がオークワに移っていたため、追いかけたのだ。
新たな用具を得た〝新生山本〟の卓球を見るなり、大塚は2つの武器を見抜いた。ひとつは、石を投げて水面で跳ね返らせる〝石切り〟のように、台上で滑るように入る打球。もうひとつは、相手によって微妙に変化する球質だ。
大塚の指導のもと、大塚も呆れるほどの猛練習で、この二本柱を鍛え抜いた山本。以降、オークワの大黒柱として18年にわたり活躍することになる。
そんな山本にとり、卓球人生の集大成となるべき和歌山国体を半年後に控えた15年春。大塚は重大な提案をした。
17年間にわたり、フォアハンドの度にグッと力を込め続けたラケット裏面の中指と薬指が、表面に貫通せんばかりに板を深く削っていた。加えて、台にぶつけてブレードも小さくなっていたため、飛距離が出なくなっていたのだ。「ラケットを替えないと、この先はないぞ」。長年、用具に関してはひと言も口を挟まなかった監督の提案。その指導者の勘を信じ、山本は新品の『日中号』に替える決断を下した。
乾燥して球離れが早い板には、自分はもとよりチームメイトの汗までも塗り込み、馴染ませ続けた。じきに板は黒みを帯び、慣れ親しんだ感触に近づいていった。ところが、親指が当たる部分は、怖くてどうしても深く削れない。指から流血しながらも使っていたが、わずかなオーバーミスが出る。見かねた大塚は言った。「私に削らせてみろ」。
山本にとって、ラケットは命に等しい。チームメイトにも触らせることを嫌い、電車でも飛行機でも、必ずラケットケースをヒザの上に抱いていた。そんな山本が、他人にラケットを削らせるなど、本来はありえないこと。しかし山本の大塚に対する信頼は絶対的だった。ラケット交換も、そして削らせたのも、それこそ心中するつもりの決断だった。
山本が見守る中、大塚はためらいもせずにすすっと深く削り、山本を驚かせた。だが、そのラケットを手に握った瞬間、思わず心の内に叫んだ。「これで何の心配もなく国体に出られる!」
それから2年、新たな手となった『日中号』で山本は完全燃焼し、ラケットを置いた。
早朝ランニング、休憩もろくに取らない練習、そして就寝前の卓球ノートとのにらめっこ。大桑堉嗣会長へ恩返しをしたいという思いで駆け抜けた、オークワでの18年間。練習で力を抜くことを知らなかった山本は、プレーにおいても、天才肌の選手のようなリラックスしたフォームを身に付けることは、ついに叶わなかった。
力の入りすぎた指先が穿ったラケット。年輪の如く合板の積層が露わになった深いくぼみは、山本の卓球人生の、痕跡そのものだ。 (文中敬称略)■
[Profile]
やまもと・まり
1977年11月19日生まれ、大阪府出身。白藤高(現・奈良女子高)卒。96年に阪和銀行卓球部に入部、NEC九州を経て、99年にオークワへ移籍。07年全日本社会人複ベスト8。09年ジャパンオープン荻村杯で決勝トーナメント進出。17年1月の全日本で、39歳にして現役生活にピリオドを打った
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