馬文革と同い年で、ドイツに渡って2000年ヨーロッパ女王となったのは何千紅(ゴッチュ)。52歳となった今もドイツ・ブンデスリーガのベーブリンゲンでプレーを続ける。その他の天津市出身の女子選手では、99年世界選手権3位の左ペンドライブ型・李楠がいる。大きく曲がるサウスポー独特の左横回転サービスから、教科書的なフォームのフォアドライブと相手を振り回すバックショートで得点を重ねた。2010年には、23歳年上の施之皓(ITTF副会長)と結婚して話題を集めた。
最近の天津市出身の選手では、ダブルスの名コンビとして活躍した男子チームのハオ帥と李平がいる。ハオ帥は05年世界選手権の準々決勝で、メイス(デンマーク)のロビングの前に痛恨の逆転負けを喫したが、左腕から繰り出す下回転サービスとナックルサービスのコンビネーションは天下一品だった。現在はドイツ・ブンデスリーガのノイ・ウルムでプレーしている。一方の李平は国家チームでは「仮想・ヨーロッパ選手」として練習相手を務め、09年世界選手権混合複では曹臻とのペアで優勝した右シェークドライブ型。現在はカタール卓球協会の登録となり、Tリーグの琉球アスティーダでもプレーしたのはご承知のとおり。
最後に天津市と卓球を語るうえでもうひとり、欠かせない人物を挙げておこう。天津市の貧しい農家に生まれながら、中国共産党の最高指導部である中央政治局常務委員にまでのぼり詰めた李瑞環だ。卓球選手としてもなかなかの腕前の持ち主で、中国卓球協会の名誉会長でもある。元世界チャンピオンの荘則棟が、佐々木敦子さんとの結婚を中国政府に認めてもらうため、李瑞環の助力を仰いだのは有名な逸話だ。
1995年の世界選手権天津大会で81年ノビサド大会以来となる二度目の7種目完全制覇を達成し、90年代前半の低迷を脱した中国チーム。その開会式には李瑞環はもちろん、当時の最高指導者だった鄧小平も出席し、大会後には中国チームに接見してその栄誉を讃えた。その後、05年上海大会、08年広州大会、15年蘇州大会と何度も世界選手権が行われた中国だが、国家的な一大事業だった61年北京大会は別格としても、95年天津大会はその規模と歴史的意義において、中国卓球史に欠かすことのできない1ページとなっている。
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