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「レールを引かれた上を歩くほうが 幸せに見えるかもしれないけど、 本当は抑えつけられたほうが強くなる」江口冨士枝

あがったらアカンと

思いながら試合をしていた。

あれだけ練習したんだから

負けたらしゃあないと

 

高校を出て、江口は難波の高島屋(デパート)にあった実家が経営する美容室で働くことになった。高島屋の卓球部に所属した彼女は、百貨店の卓球大会に出ていた。店が終わってから食堂を片付け、そこへ卓球台を出して、仕事でクタクタになった後に男子社員と練習をしていた。

手が大きくて力が強いため、シャンプーとマッサージの評判が良くて、お客さんから次々指名が入り、食事する時間もないほど忙しく、ずっと立ち仕事をした後の練習だった。

百貨店大会はレベルが低かった。いったんは諦めた卓球だったが、やっているうちに「自分は卓球が好きやねんな」と卓球への思いが高まっていった。「もっと思い切って好きな卓球をやりたい」という気持ちが次第に強くなり、その思いは鬱積していった。そして、父へ相談することを決めた。

父の答えはこうだった。「大学に行ってもいい。その代わり、医科大学だけだ」。父は、これからは医師の免許を持った美容師が必要になる時が来ると考えていた。また、父は実業家ではあったが、もともと家は農業で、当時、学校に行きたくても行けずに勉強したくてもできなかった。そのために、その思いを子どもに託して、最高の教育を受けさせようとしていた。

「医者なんて無理」と江口は思いながらも、卓球への強い思いを捨てられずに受験勉強を始め、翌春には大阪薬科大学の医科コースに合格した。

昭和27年(1952年)に大阪薬科大に入学した江口。強いチームではなかったものの、大学にも卓球部はあった。そこで江口は河村鉄夫コーチに出会い、見よう見まねの卓球から、理論的な卓球に触れることになる。

夏休みの合宿では好きなだけ卓球ができたし、トレーニングも厳しかった。その練習の成果もあって1年のインカレ(大学対抗)で優勝。それは江口自身にとって初めての全国タイトルだった。

その頃、父に言われた言葉を江口は今でも忘れない。

「運がいいとか、運が悪いと言うけど、それはその人次第だ。運という字をよく見ると、『軍(いくさ)』に『しんにょう』をつける。軍は命がけでやるもので、それでも足りないからしんにょうをつける。人並みの努力をしても運は向いてこない。命がけの軍をして、さらに何かを付け足して初めて運は向いてくるんだ」

江口は練習の時には卓球台を2台並べてフットワークをやっていた。そして1年生の秋には全日本学生選手権(シングルス)でも優勝するほど力をつけていく。

「あの大会はいつものようにやっていただけなんですわ。あがったらアカン、あがったらアカンと思いながら試合をしていた。あれだけ練習したんだから負けたらしゃあないと」

時間の限られた大学の練習の中で、江口はがむしゃらに卓球に打ち込んだ。思い切って卓球ができると思って大学に入ったが、医科コースのために思うように練習はできなかった。 実習もあるので30分しか練習できない日もあったが、その30分もすごく大切な練習時間だった。その分、卓球への渇望感はさらに高まり、集中力と練習の激しさは倍加していくことになる。

「人間というのは抑えられた気持ちがあるほうがいい。レールを引かれた上を歩くほうが幸せに見えるかもしれないけど、本当は抑えつけられたほうが強くなる。

私は高校時代は父に反対されながらも隠れるように卓球をやっていたし、高島屋にいる時も鬱々としていた。大学でも卓球だけをできる環境ではなかったけど、練習の時は集中して思い切りボールを打てた」

工夫し、集中することで30分の練習は何時間分の練習になる。今どきの選手のようにすべてが整い、親も応援し、名門校で育っていく姿とは明らかに違う。時代背景がそうしたとも言えるし、逆境は悪いことだけではない。逆境こそが人間を強くし、不遇な環境が人間を育てるのかもしれない。

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