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「レールを引かれた上を歩くほうが 幸せに見えるかもしれないけど、 本当は抑えつけられたほうが強くなる」江口冨士枝

世界選手権の苦しい試合の時に、

『あんだけしんどい練習したんだから』と

自分に言い聞かせていた。

そのために練習をしたのかもしれません

1959年ドルトムント大会で荻村と組んで混合ダブルスで優勝した

『試合前に練習すんなと

言うんですか。

そんなわけいきません』と

口答えしてました

 

悔いの残ったユトレヒト大会では、試合とは別の思い出があると江口は言う。

「ハンガリーのセぺシという先天的に小児麻痺で腕が短い選手がいた。動く時のバランスが悪いなと思いながら見ていたら、日本戦で日本ベンチの前で転倒。その瞬間に荻村さんと田中さんが身を挺して、床とセぺシの間に身体を入れて、ケガをするところを助けた。

当時はオランダの日本大使館の日の丸にケチャップをつけられたり、大使館に卵を投げつけられた時代です。戦争中に敵国だった日本に、反日感情むき出しのオランダの観衆が、この時を境に日本選手の応援をするようになった。

日本に帰国してからも首相官邸に代表団が呼ばれて、鳩山一郎首相に『君たちのおかげで日本の外交がやりやすくなった』とおほめの言葉をいただいた。荻村さんと田中さんのとっさの判断でした」

また、男子シングルスで荻村がハンガリーのシドと試合をする時に、江口が応援でベンチに入った。

「巨漢のシドに対して、やせっぽっちの荻村さんは動いて動いて打っていく。試合前に荻村さんは『江口、シドのあのどてっ腹にオレが何発スマッシュを当てるか、よう見とけ』と言ってコートに入っていった。そして荻村さんは実際にシドの腹に何発もスマッシュを当て、そのたびに『ピシッ』と音がしてた」

1956年東京大会では日本は4種目に優勝したが江口はタイトルにからんでいない。女子団体とシングルスは3位、女子ダブルスは準優勝という成績だ。 団体はルーマニアに負けている。「ロゼアヌが強かった。切れないカットが低く入ってきて、ものすごく打ちにくかったし、打っても壁のように返ってきた」。

24歳で迎えた1957年ストックホルム大会で、江口は日本女子のエースとして活躍し、女子団体、シングルス、荻村との混合ダブルスの3種目で優勝した。「自分ではあまり意識してなかったけど、ストックホルム大会が選手としてはピークだった」。

「当時は団体優勝が目標で、シングルスは付録のようなもの。団体で勝つことしか頭になかった」。団体ではエースとして全勝して優勝の立役者となった。宿敵ロゼアヌを倒しての優勝だった。苦手だったカットマンに対しても、練習を重ね、自信を持てるようになっていた。

団体で重責を果たした後のシングルスでは、準決勝でチームメイトの渡辺妃生子をゲームオール19本で下し、決勝のヘイドン(イングランド)にもゲームオールで競り勝ち、初優勝を飾った。

そして、荻村と組んだ混合ダブルスも思い出深い。

「荻村さんは優しくて懐が深い人でした。混合ダブルスを組んでも怒ることはなかったし、私がまずいボールで返しても荻村さんがしっかり押し返してくれた」。ストックホルム、ドルトムント大会と混合ダブルスで2連覇した荻村・江口組。後に荻村は「オレがスマッシュしなきゃいけないのに、江口が先にスマッシュを打って抜けるんだよ」と僚友の藤井にもらしていた。

荻村は選手団の中心でありながら通訳もこなし、大会前や大会後には一流の芸術を鑑賞する機会を必ず作ってくれた。

当時の世界選手権は前半の団体戦が終わって個人戦に入る前に一日休養日があった。ウェンブレー大会に行った時には、 プリマバレリーナのマーゴ・フォンテインの「白鳥の湖」の鑑賞に連れて行ってもらった。

ユトレヒト大会の時には、汽車に揺られ田舎町にあるヴィンセント・ヴァン・ゴッホの生家に行った。大会の帰りにパリのルーブル美術館、ハンガリーのブタペストではワインの製造元を訪れたり、世界選手権の帰りに寄ったエジプトではラクダに乗ってギザのピラミッドへ行ったりと、普通だったら行けないところに連れて行ってくれた。

「歴史的な史跡に連れて行ってくれて、一流の芸術に触れさせてくれたのは荻村さんだからです。選手として、日本代表として、そして人間として、超一流のものに触れる機会が大切だった」

江口は1954年から59年まで5大会連続で世界選手権に出場した。最後の世界選手権は59年のドルトムント大会となった。

当時は日本男子が強くて、国内で差別されているという思いを抱いていた江口は、「男子には負けるもんか」と練習に励んだ。男子はそう思っていなくても、女子選手は日本男子をライバル視していた。

「練習でも男子が朝走っていたら、その倍を走ろうとか、練習を男子が1時間したら女子は2時間やろうとか、とにかく負けたくなかった。世界選手権は初出場の松さん(松崎キミ代)とよく宿舎の周りを走っていました。長谷川喜代太郎団長には『おまえら練習やり過ぎだ、やめろ』と注意されたけど、『試合前に練習すんなと言うんですか。そんなわけいきません』と口答えしてました」

合宿の休憩時間でもフットワーク練習をやめなかったというエピソードが、江口にはある。

「フットワーク練習は、疲れた時にこそやらなあかん。練習で疲れるのは当たり前ですわ。そこからが勝負。ウサギ跳びも、男子が終わってからもやめへん。男子という身近なライバルがいたから良かった」

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