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「レールを引かれた上を歩くほうが 幸せに見えるかもしれないけど、 本当は抑えつけられたほうが強くなる」江口冨士枝

素質は頑固なところかな。

私は不器用なんですわ。

だから人の何倍も

努力せなあきまへん

 

ドルトムント大会の時には現地に入ってから松崎キミ代が熱を出して、江口は看病に努めた。松崎の病気のことは、新聞記者には伏せておいた。松崎はリーグ戦の前半は出られなかった。

そして、決勝リーグ進出をかけた予選リーグの日本対ハンガリー戦。前半で休んでいた松崎が出たが、トップでコチアンに負けた。ダブルスも負けて1-2で江口に回ってきた。彼女がコチアンに負けたら1-3で日本が負け、決勝リーグに進めない。

「コチアンのカットは、フォアもバックもボールの外を切るので、カットが曲がって入ってきて、フォアで動ききるのが大変だったし、彼女は反撃もうまかった」

1ゲーム目を江口が落とし、あと1ゲームを落としたら前回チャンピオンの日本が負けるピンチを迎えた。会場が水を打ったようにシーンと静まりかえった。

2ゲーム目が始まった時にコチアンの攻撃にミスが出始めた。そこで、江口はわざと攻撃を誘うような作戦を使い、1-1のタイに戻す。3ゲーム目に入る時にも攻撃ミスを誘う作戦を使ったのだが、コチアンは次第に攻撃をしなくなった。

「あの場面では本来自分が自信を持てる技術、それ以外の技術は相手に効かなくなった。私はフォアのロングだし、コチアンはカット。それ以外の技術をお互いが使わなくなった。 お互いが余計なことをしない我慢比べですわ。1本取るのにものすごいラリーが続く。見ていた人は100本続いたラリーがあったとも言うし、お互いが自信のある技術しか使わなかった」

それは、精神力対精神力の戦いだった。苦しい練習を乗り越えた自信と、日本代表として背負うものの大きさと決意。その差が勝敗を分けたのかもしれない。江口がゲームオールの僅差で勝利を手にした。

この時、国際卓球連盟のモンタギュー会長が、江口とコチアンの試合のために他の試合をストップして、ベンチで見ていた。

「ゲームセットの後に良い試合ができたから『いい試合できたな、ありがとう』とコチアンと握手して、ベンチに戻ったら、そこにモンタギュー会長がいた。『ミス・エグチ、良い試合を見せてくれて、ありがとう』と握手を求められ、『もう試合を始めていいぞ』と会長が言ったら、他の試合が再開。私らの試合のために他の試合を中断していた。試合中は全く気がつかなかった。ベンチも見てなかった。この時のコチアンとの試合は忘れられない試合ですね。根を詰めた試合でした」

試合中に 「何やってるんだ、頑張れ江口」と自分を叱咤する。リードしているのに「挽回、挽回」と自分を戒め、「なんだ今のボールは? もっとしっかり打て!」と自分を怒り、「はい、頑張ろう」と自分で答えていた。

会場の静寂には気がついていたが、周りは見えなかった。見えるのは相手のコチアンとコートだけだった。

激闘の中で「ここで勝つためにしんどい練習をやってきたんやから」と江口は自分に言い聞かせていた。

2-2に持ち込み、ラストは松崎が勝利し、日本は決勝リーグ進出を決め、優勝に向かっていった。シングルスでは再びコチアンに準決勝で競り勝ち、決勝は後輩の松崎に敗れた。

「ドルトムントが終わったらスパッと卓球をやめました。その大会を最後に現役をやめるのは決めていたし、私の思いや日本代表としてのすべてを松さんにバトンタッチしようと思ってましたから」

そうして1950年代の「卓球ニッポン」は伝承されていった。それは国家や協会というレベルではなく、卓球人として崇高な意識を持ったプレーヤーによって受け継がれていった。その江口の思いを受け止めるように、60年代の日本卓球を牽引したのは名選手・松崎キミ代だった。

江口冨士枝は5回の世界選手権に出場し、松崎キミ代の7個に次ぐ6個の金メダルを獲得した。そのチャンピオンとしての素質とは何だったのだろう。

「素質ねえ……頑固なところかな」と笑う江口。

「私は不器用なんですわ。だから人の何倍も努力せなあきまへん。ただ、休憩時間にフットワーク練習をしたり、限界に挑戦して苦しい練習ができたのは体力があったから。世界選手権の苦しい試合の時に、『あんだけしんどい練習したんだから』と自分に言い聞かせていました。その時のために練習をしたのかもしれません」

世界の頂点を極めた江口は現役引退後にレディース卓球の普及のために尽力し、日本卓球協会のレディース委員会の委員長を務め、大阪卓球協会の会長として、名誉職ではなく裏方として大会のバックヤードで働いてきた。

気取らず、献身的な「大阪のオカン」を慕う人は多い。

「これやってな、と言われると、よう断れんのですよ。役員は会員さんのためにある。どうしたら会員さんが喜ばれるかと考えている。そういう取り組みでないといけない」

「江口さん、卓球をやってなかったら何をしていたんですか」と聞くと「卓球をやってなかったら医者をやっていたかも」と答えた。父は医師の免許を持った美容師にしたかったが、この人は患者を笑顔にする医師になったかもしれない。

「私は『あかんたれ』(弱虫)なんですよ。言いたいことをよう言わんと、もぞもぞしている自分が『あかんたれ』と思うことがあるんですよ」

泣き虫であっても、弱虫ではなかった。窮地に立たされても、不屈の精神力を発揮し、得意のフォアハンドを打ち込み、1950年代の「卓球ニッポン」を支えた。

「卓球が大好きやねん」という江口は82歳になった今でも週に一度はラケットを握って指導している。大好きな卓球への恩返しでもある。

卓球に愛され、卓球を愛した江口冨士枝。日本の黄金時代を築いた伝説の名選手の、その素敵な笑顔は今も変わらない。

〈文中敬称略〉

 

 

2015年の取材の際の江口さん

 

 

 

◉えぐち・ふじえ

1932年(昭和7年)11月18日、長崎県長崎市生まれ。7歳で大阪に移り、東船場高から大阪薬科大学に進む。1954年世界選手権ウェンブレー大会に初出場、1957年世界選手権ストックホルム大会で女子シングルスを含め三冠王。世界選手権では6個の金メダルを獲得し、全日本選手権は2度優勝を飾る。現役引退後はレディース卓球に尽力し、日本卓球協会レディース委員会委員長、大阪卓球協会会長などを務めた

 

 

 

 

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