4年に一度開催される、ろう者(聴覚障碍者)の世界最高峰の総合スポーツ大会・デフリンピックが5月1日(現地時間)からブラジル・カシアスドスルで開幕した。5月5日からスタートする卓球競技には、日本から男女4名ずつが出場。男女団体・シングルス・ダブルス、混合ダブルスの7種目でメダル獲得を目指す。
卓球競技の男子主将を務めるのは、36歳にして初出場の井藤博和。競技開始に先立ち、「あきらめの悪い」井藤の卓球人生を紹介する。(初出:卓球王国2021年3月号「Another Story 38」・本文中の肩書きはすべて当時)
〈文・浅野敬純〉
●色が変わるまで繰り返した壁打ち。達成感と悔しさ半々の高校時代
羽田空港の展望デッキで、その男は泣いていた。男の名は井藤博和。34歳にして4年ぶりにつかんだ国際大会出場の夢は、無情にも打ち砕かれた。
鳥取県の西部、米子市に周囲をぐるっと囲まれた日吉津村で井藤は生まれた。聴覚の障がいは先天性のものだが、特別支援学校ではなく、補聴器を装用して小・中・高と普通学校に通った。
兄の影響で小学生時代はサッカーチームに所属。しかし、中学では卓球部を選んだ。理由はふたつ。サッカーでは補聴器が接触プレーで破損したり、雨で濡れてしまう懸念があったこと。また、もうひとりの兄が中学で卓球部に所属しており、時々、家のテーブルを卓球台代わりにして「ピンポン」で遊んだのが楽しかったことも、井藤が卓球を選んだ理由だった。
井藤が卓球にのめり込むのに時間はかからなかった。中学校の体育館が使える日は週に3、4日程度。それでも、体育館が使えない日には同級生を誘って公民館で練習し、家での日課は壁打ち。毎日繰り返し壁にボールを打ち付けたせいで、壁の一部分だけ色が変わってしまい、母親から壁打ち禁止令が出された。それでも井藤は壁にテーブルを立てかけ、そこにしか打たないという条件で壁打ちをさせてもらった。
しかし、目立った成績は残せずに中学校を卒業。高校は通学しやすく、兄も通っていた県内屈指の進学校である米子東高に進んだ。当然、井藤は卓球部に入部するが、入学早々に米子東高は中国高校選手権の学校対抗に出場。井藤はダブルスで起用された。勝利はあげられなかったものの、初めてこの規模の大会に出場したことで「もう一度、大きな大会に出たい」という目標が生まれ、中学以上に卓球に没頭していった。現在は表ソフトを使用する井藤だが、高校入学時は裏ソフト。ループドライブに対するブロックができず、先輩の勧めで高校1年の途中から表ソフトを使用するようになった。
井藤が2年生になり、3年生が引退すると、部員は井藤と1年生3人の4人だけに。中学時代に実績のある後輩がおり、部をまとめる立場となった井藤は、彼と相談しながら練習内容を考えていった。その成果はすぐに現れ、秋に行われた高校選抜の県予選を勝ち抜き、1年生の春以来となる中国大会に出場。この大会では1勝することができた。高校3年のインターハイ県予選は「ダブルスならチャンスがある」と感じていたが、代表権をつかんだペアにフルゲームで敗れ、井藤の高校での卓球生活は「達成感と悔しさ半々」で幕を閉じた。
「進学校だし、何となく大学に行くんだろうなと思っていた」という井藤。中学では勉強はできたほうだが、進学校の中で卓球に没頭した結果、高校での学業成績はどんどん下降線をたどっていった。成績はいつも学年で平均以下。国公立大への進学を希望していたが、センター試験も散々な結果に終わり、浪人することとなった。
当時、米子東高には「専攻科」と呼ばれる浪人生を対象としたクラスがあり、井藤もこの専攻科に通っていた。専攻科の生徒も高校の制服を着て登校し、クラスとして球技大会にも参加。さながら「高校4年生」のような1年を過ごし、井藤は山口大理学部数理科学科に合格する。
●数学で吹き飛んだ卓球への興味。東京で、ろうあ者卓球と出合う
大学でも卓球を続けるつもりだった井藤は、入学前に何度か卓球部の練習にも参加した。入部する気満々でいたが、最初の数学の授業で衝撃が走った。
「『数学ってスゴいな』って衝撃を受けたんです。高校までは受験数学で、問題をひたすら解くだけだった。大学の数学は問題を解くんじゃなくて、厳密にひとつひとつ理論を構築していく感じ。最初は教授の話もまったく意味がわからなかったけど、これが理解できたらすごくおもしろいと思ったんです」
自分の性格を「これだと思ったら、ガーッと行くタイプ」だという井藤。体に走った数学の電流によって卓球への興味は吹き飛び、朝から晩まで数学の勉強に明け暮れる。色が変わるまで壁打ちを繰り返し、勉強そっちのけで卓球ばかりしていた息子の変貌ぶりに、母親が「大丈夫?」と不安を覚えるほど数学に没頭した。あれだけ情熱を注いでいた卓球は、サークルや学生寮にあった卓球台で遊ぶ程度。今となっては井藤自身も信じられないほど、数学漬けの大学生活を送った。
大学卒業後も「4年間では勉強し足りない」と大阪市立大の大学院へ進学。いずれは研究者に、という将来も描いていた。だが、数学が好きというだけでは追いつけない存在がいることを思い知らされる。大学院の研究室にいるのは、自分よりも遥かに優秀な学生ばかり。彼らの存在は、次第に井藤に研究者への道を諦めさせ、就職活動へと動かしていった。
その就職活動の最中、井藤は卓球を再開する。家の近所に障がい者スポーツセンターがあることを知り、就職活動のストレス発散にと、卓球経験のあるスポーツセンターのスタッフと卓球をするようになった。そこで練習する肢体不自由の選手たちとも次第に仲良くなり、徐々に井藤の日常に卓球が戻ってきた。
2011年、大学院を卒業した井藤はシステムエンジニアとして東京で就職。東京でも障がい者スポーツセンターを探して練習するようになった。そんな中、井藤にひとつの転機が訪れる。「東京都の障がい者卓球選手権に聴覚の部があるから出てみれば」と誘われたのだ。この大会で井藤は、後に日本ろうあ者卓球協会の理事長を務める藤川太郎ら、ろうあ者の選手たちと知り合う。彼らと出会い、ろうあ者スポーツ最高峰の大会・デフリンピックをはじめ、それまで知らなかった、ろうあ者卓球の世界を知った。
2012年には東京で世界ろう者選手権が開催され、井藤も会場に足を運んだ。その数カ月後に開催された、ろうあ者の関東大会に出場した井藤は、世界ろう者選手権に日本代表として出場していた望月翔太、有馬歓生と対戦。団体戦では2人にボコボコにされたが、翌日のシングルスでは会心の当たりで有馬にリベンジを果たした。望月との再戦ではまたも敗れたが、「やっぱり卓球はおもしろい」、そうひしひしと感じるようになっていた。
ろうあ者の大会では、プレー中の補聴器の装用は認められていない。高校まで補聴器を装用して健常者の大会に出場していた井藤にとって、それは未知の体験。身体のバランス感覚というのは複雑で、聴覚もそれを保つうえで大きな役割を果たしている。今は補聴器の有無に関係なくプレーできるが、最初に補聴器なしで練習した際は「ボールとの距離感がつかめなくて、普通のフォア打ちで空振りしていた」という。
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