卓球王国 2024年11月21日 発売
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東京五輪卓球

五輪のメディア事情。世界の専門メディアのIDカードは2枚だけ。特別に厳しいオリンピック

 

2021/07/21.Training at Tokyo 2020, Olympic Games, Tokyo Metropolitan Gymnasium . 広い東京体育館に横に一列4台置かれた競技場。キーカラーは紅と桜の2色。卓球競技は明日、開幕する

 

卓球専門のカメラマンは2名だけが許される。

オリンピックはメディアにとっても狭き門

 

オリンピックになるといつも聞かれる。

「卓球王国は今回は何名くらい行くんですか」と。

世界選手権などでは、卓球メーカー、テレビ局、様々なメディア(新聞社を含めて)、最近ではネットメディア(この人、本当にそうなのかなという人もいます)もメディア申請し、認められる。昔の世界選手権はメディア全体で数十名規模だったが、最近では日本だけで数十名規模のメディアが世界選手権に行くようになった。

ところが、オリンピックは特別な環境となる。まず、新聞社、通信社でも1社10名程度の記者で40近い競技を取材することが普通。新聞記者にとっては何十名いる記者の中で五輪を取材できるのは、記者としては誇りのひとつになる。

そのためにはアクリデテーション(accreditation=認定)という申請許可を受け、それを持ってMPC(メインプレスセンター)に行き、初めてストラップ付きのIDカードを作ってもらう。

大手の新聞社・通信社と違って、卓球の専門メディアはすべてが自分たちで動く。世界中で「オフィシャルフォトグラファー」としてIDカードが取得できるのはたった2名だけ。撮影した写真は自社はもちろんだが、すべてITTF(国際卓球連盟)に提供する。IDカードのカテゴリーは「EPS」というもので、残念ながら卓球競技にしか入れない。

世界中で2名しか枠がないので、このカードを取得するためには4年間の交渉が必要となる。卓球王国が創刊される前、1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ、1996年アトランタは私、今野が荻村伊智朗元会長、アダム・シャララ前会長とのコネクションを使いまくり、IDを取得。

ところが、2000年シドニーでは油断したわけではないが、取り逃し、代わりにITTFのゲストパスを作ってもらい、ゲストエリアから撮影した。

2004年アテネでは再び、当時のシャララ会長に水面下での交渉を続け、卓球王国として初のIDを取得し、元発行人の高橋和幸氏を送り込むことに成功し、2008年北京も同様の「手口」でGET!

2012年ロンドン、2016年リオでは再び今野がIDを取得した。

IDを取得することがゴールではなく、2週間近い大会に入ったら、朝から晩まで全選手を撮影し、最近では現地からのWEB速報などを発信するために相当にハードな環境になっている。ロンドン五輪では途中足腰に疲労が来て、筋肉痛(選手でもないのに)に悩まされ、リオ五輪では水谷隼の初のシングルスメダル獲得を速報で、卓球王国8月発売号に入稿、掲載するために、徹夜仕事になってしまった。翌日はヘロヘロになり、カメラを抱えたまま寝てしまい、多くの方からメールで「しっかりしろ」と叱咤される始末。

今大会、卓球王国からは「タロー」こと柳澤太朗がオフィシャルフォトグラファーとして名誉あるIDを取得し、会場に乗り込む。本人が躊躇していたワクチンは半ば強制的(?)に接種された。

 

 

1988年のソウル五輪。日本女子の星野美香・石田清美のダブルス。グリーンのフェンス、台、木の床だった

 

1988年ソウル五輪で初参加した卓球。

その後のカラー革命で、卓球の見え方も変わった

 

1988年ソウル五輪が卓球にとって初のオリンピック。

当時はオリンピック村の中に「選手村」と「記者村」という形で分けられ、2LDKのマンションを初めて会う数名のメディアの方と共用。ここからオフィシャルバスで郊外の会場まで通い、レストランもない会場で、昼は売店で買う「辛ラーメン」のカップ麺で栄養補給。

フェンスと卓球台はグリーンで、木の床だった。当時から会場は4台の卓球台が設置されていたと記憶している。

試合の方は男子では韓国勢が活躍し、男子シングルスでは劉南奎、金琦澤が金・銀メダルを獲得。メダル決定戦ではスウェーデンのリンドがクランパ(ハンガリー)を破り、初メダル。当時の世界チャンピオンの江加良(中国)はメダル獲得できなかった。中国の男子はペンホルダー攻撃への迷いと、新しいプレースタイルを模索していた。

女子は、シングルスで陳静、李恵芬の中国同士の決勝で、陳が優勝。実は、当時の世界チャンピオンは何智麗(中国)だったが、前年のアジア競技大会で韓国に敗れていたことを考慮して、当時の首脳陣が代表から外した。のちに何智麗は国家チーム首脳陣を新聞で批判。その後、日本に渡り、小山ちれとして帰化し、日本代表として五輪のコートに立ったが、メダル獲得は叶わなかった。

陳静も五輪を頂点にして、その後不調に陥り、私的な問題も発生し、国家チームをはずれ、その後、チャイニーズタイペイに移住し、1996年はチャイニーズタイペイから出場した。五輪が選手の人生を動かしていく例だろう。

 

ソウル五輪では日本勢では星野美香(現姓馬場・女子監督)と石田清美のダブルスが準決勝に進んだが、優勝した韓国の梁英子と玄静和に敗れた。メダル決定戦ではユーゴペアだったので、日本初のメダル獲得か、と思われたが惜敗。それから日本は2012年まで五輪のメダルは獲得できなかった。日本は代表7名のうち、カットマンの内山京子を除き、6名がペンホルダー攻撃型だった。

この大会で当時のIOC(国際オリンピック委員会)のサマランチ会長がITTFの荻村会長に「もっと卓球をカラフルにしたらどうだろう」と助言。それを受けて、荻村会長はその後、大胆な卓球のカラー革命を断行していく。

 

ヨーロッパ卓球の絶頂と終焉。

ワルドナーとガシアンのシングルス対決

 

1992年バルセロナ五輪の前年の1991年世界選手権千葉大会で荻村会長は、ブルーの卓球台、ブルーのフェンス、白いウエア、オレンジボール、エンジ色のフロアマットという従来の卓球のカラーリングと全く違う環境を作り上げていた。

1992年の卓球の会場は元バルセロナ北駅を改造した体育館で、なんとも趣のある会場だった。当時のヨーロッパ選手は7、8月はシーズンオフであまり激しい練習はしない時期で、選手になってからの習慣で夏にビッグゲームを戦うことに慣れていなかった。しかし、ソウルで経験した選手たちは、しっかりと練習をやりこんで臨んだ。4種目(男女の単複)中、3種目で中国が金メダルをとったが、男子シングルスはヨーロッパの独壇場。スウェーデンのワルドナーがフランスのガシアンを破り、五輪金メダリストとなった。

ヨーロッパの強い男子の卓球界には華があった。古くはシェークの守備型が主流だったヨーロッパ卓球は、ハンガリーの両ハンドのパワードライブスタイルを経て、スウェーデンの両ハンドボールラウンドスタイルに変わり、現在の卓球の原型とも言えるプレースタイルを見せてくれた。

日本代表は、若手のカットマン、渋谷浩、松下浩二が代表になったが、メダルには程遠いチームだった。

ちなみに、その後、1993年に世界チャンピオンとなったフランスのガシアンは、のちにINSEP(フランスナショナルトレーニングセンター)のチェアマン(代表)になり、2024年パリ五輪の代表的なキーパーソンになっている。

IOC委員になった柳承敏(韓国・2004年アテネ五輪金メダリスト)もそうだが、選手時代の名声とともに、引退後に要職を担える人望・人格・才能を兼ね備えているチャンピオンは卓球界にとって誇らしい。

100年にひとりの卓球キング。ワルドナーがバルセロナ五輪で優勝

 

ワルドナーと決勝を争ったガシアンは、現在、パリ五輪の組織委員会の中枢にいる

 

 

中国独占時代の始まり。

ペン表速攻の劉国梁と変化攻撃の鄧亜萍が2冠

 

1996年アトランタ五輪。この頃はまだSNSもインターネットも始まっていない。大会期間中に爆弾テロがあり、物々しい雰囲気とセキュリティーによって緊張は高まった。

また、女子シングルスの決勝は五輪2連覇を狙う鄧亜萍(中国)と、1988年金メダリストの陳静(チャイニーズタイペイ)が対戦。試合途中で、観客が台湾の旗を振ったということで警察が乗り込み、手錠をかけて、退場させたり、男子シングルスの準々決勝では停電が起こり、王涛対サムソノフの試合の流れが変わったり、まさに「オリンピックでは何が起こるかわからない」。

4種目で中国が初めて完全優勝。12個のメダルの内、8個を獲得した。1980年代から国威発揚のために「国技」である卓球の強化はさらに加速しているようにも見えた。男子シングルスで優勝したのは劉国梁。現在の中国卓球協会の会長だ。孔令輝とのダブルスでも優勝し、2個の金メダルを獲得した。

日本からは帰化した小山ちれ(中国名:何智麗)が出場し、準々決勝で中国の喬紅に完敗した。日本のメダル獲得はまだまだ遠い時代。

 

当時は現在のようにデジタルカメラではない。日本から乗り込む時にスーツケースにX線を遮断する袋にフィルムを200本ほど入れてアメリカ入り。

オフィシャルカメラマンは登録さえすれば、撮影した分のフィルムをスポンサーのコダックが提供してくれるシステムだった。たとえば大会1日目で60本のフィルムを使って撮影する。そのあと会場に待機しているボランティアに袋に入れたフィルムを渡す。次の日にMPCのコダックのブースに行くと、すでに現像が終わり、撮影した60本分の新しいフィルムをもらえるのだ。もちろん現像料は無料。合計で数百本分のフィルムを使った。

これはシドニーまで続き、アテネからはデジタルカメラの時代になった。

<続く   卓球王国発行人 今野昇>

アトランタ五輪で2個の金メダルを奪取した劉国梁。現在は中国卓球協会の会長を務める

 

今大会は体力と知力に定評のあるタローこと、編集部の柳澤太朗がオフィシャルフォト(写真提供:O氏)。ユース五輪や世界ジュニア、世界選手権などの修羅場を踏んでいる男だ

 

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