世界の卓球業界でこれほど有名だけど、これほど無名な人もいない。
このなぞかけの答えは「ゲオルグ・ニクラス」だ。
ニクラスはドイツのブンデスリーガ1部リーグで8シーズンプレーした実績を持っている。と同時に、その時期、大学では化学工学の研究をしていた。ドイツでは大学で勉強することは、プロのスポーツ選手では難しい。日本のようなカレッジスポーツがないので、スポーツ推薦で大学に入ることが皆無(スポーツ系の大学は別だろう)で、ドイツの大学生にはハードな勉強の生活が待っている。
そういう環境の中で卓球好きの大学生は勉強と好きな卓球を両立させるために、勉強の空いた時間に地域のクラブで卓球を楽しむ。ニクラスもそういう学生のひとりだった。大学を卒業後、そのまま修士課程、博士課程(PhD)で化学を研究しながら、ブンデスリーガ1部でプレーしていたのは特別なことだ。
ヨーロッパではPhDというのはアカデミアの世界、ビジネスの世界ではある種のステイタスをもって迎えられる。ゆえにヨーロッパではPhDを修了した人は名刺に「ドクター◯◯」と入れるのが慣例だ。ドクターという研究者が今で言うプロリーグの最高峰、ブンデスリーガ1部でプレーしたのだから、異色の存在ではあっただろう。
ゲオルグ・ニクラスは「ドクター・ニクラス(Doctor Nicklas)」と名乗り、彼が作った卓球メーカーがDONIC。つまりドクター・ニクラスが名前の由来だ。その後、このブランドを売却し、すべての財産を投げ売って作ったのがラバー製造会社の「ESN」だ。創業は1991年だった。
そもそも卓球のラバーは1902年にイングランドで作られ、世界に流行していった。資料では1923年(昭和8年)には美津濃社がラバー貼りラケットを発売している。(日本製かどうかは不明)
日本で本格的に卓球のラバーが製造されたのは戦後と言われている。特に東京の下町、葛飾区、荒川区、墨田区、台東区に、卓球ラバーやセルロイドボールの工場もこの地域にあった。
大きなローラーで原料の天然ゴムの塊に顔料や薬品を入れ込み練られ、加硫させ、そのゴムは熱を加えられ、パチパチと音を立てながら軟らかく弾力のある大きなゴムの塊に変身いていく。それを長いシートの帯状態にして、さらにそれを粒の金型にはめ込み、焼いていく。簡単に言えば、これで卓球のラバーのトップシートは完成する。
スポンジの原料もゴムだが、それに発泡材を入れて焼き込む。まるでイースト菌を得て、膨らんでいくパンのようなものである。そのスポンジの塊を薄くスライスして、トップシートを接着させれば、卓球のラバーが完成する。
しかし、その薬品の配合、焼き込み、合成ゴムとの配合など、繊細な工程と膨大な経験と知見が必要とされる。ゴムは通常、車の部品でも衝撃を吸収るための部品として製造されるのに、卓球ではそこに弾みやら摩擦力、そしてコントロールまで求めるのだから、これほどやっかいな製品は類を見ない。
今から70年前の1950年代には日本では百花繚乱のごとく、スポンジや裏ラバー、二枚重ねの裏ラバー、粒高ラバーなどが作られた。日本人、とりわけ卓球の選手たちはそこにマニアックな嗜好をすでに持ち合わせていたようだ。
そして1967年に『スレイバー』(バタフライ)、1969年に『マークV』という、いわゆる合成ゴムの比率を上げた高摩擦高弾性の裏ソフトラバーが出現した。高性能な中国ラバーが出現する前の世界の卓球界では、文字通り「日本ラバー」が最高の用具だった。
ゲオルグ・ニクラスはまだ20代だった頃に初めて日本の地を踏んで、このアジアの国に興味を抱いたと語っている。のちにドニックというブランドを作り、スティガのドイツの代理店を始めた頃から来日する頻度は高まり、ドニックは日本製ラバーをブランドのフラッグシップモデルとして発売し、アペルグレン、パーソンというヨーロッパ、世界チャンピオンが使用するラバーを柱とした。
しかし、ニクラスは心にもやもやとした感情を抱いていた。「卓球メーカーはメーカーであっても商品を作っていない。自分は物作りをしたい」というエンジニアとしての思いだった。
そして1987年に彼はドニックを売却し、ラバー工場を作る準備に取り掛かる。
そして1991年にESNをスタートさせた。93年に商品として出荷できたが、スポンジは日本製で、その年からはスポンジの製造に取り掛かった。会社が黒字化するまでは5年かかった。
「会社をスタートさせた時から独自のユニークなラバーによって成功できると信じていた。それは中国ラバーや日本ラバーではなく、独自の新しいラバーを作りたかった」(ニクラス)。
2000年以降、ニクラスはドイツ内にいる理系の学生やPhDを取得する人をターゲットにリクルートを始める。その数年前から日本のタマス(バタフライ)でも同様のことが久保彰太郎(元専務・故人)の号令のもとに行われていた。1990年代初頭、タマスの開発担当は数人以下だったのが、1997年のハイテンションラバー『ブライス』の開発前後から、久保は将来のタマスは自社製品、自社製造にこだわり、それは科学の知識のある人間が開発すべきだという信念のもと、人材の発掘、育成に手をかけていく。
ニクラスも同じ考えで、卓球選手でありながら、大学や博士課程で科学、化学、物理、コンピューターを研究している人間を集めていくのだ。
ニクラスが作ったESNはその後、世界で最大の卓球ラバー供給会社に成長した。年間生産枚数は数百万枚で、17ブランドに供給している。現在は選手の発掘、育成、そしてデジタル解析という分野まで手を広げ、「最高の卓球テクノロジー企業」を目指していて、単なる下請けのラバー工場では終わらないという高い志がESNにはある。
その創業者、ゲオルグ・ニクラスのインタビューが卓球王国最新号(6月21日発売)で紹介されている。ESNを起ち上げた頃、彼のドイツの自宅を訪れた時に、彼の仕事部屋の壁には天才科学者のアインシュタインの大きな写真が飾られていた。卓球の世界で彼はまさに「卓球界のアインシュタイン」になったと言えるだろうか。
https://world-tt.com/blog/news/product/az316
↑卓球王国最新号2023年8月号
ツイート