【エッセイ=西村友紀子】
ホカバを目指す卓球キッズの親御さんのことを、私は卓球母(たっきゅうぼ)と呼んでいます。卓球母は一般のママとは似て非なる感覚を持つ生き物。そのぶっ飛んだ行動を卓球母のひとりである私の体験を通してご紹介します。
私は高校生スタートの卓球レディース。学生時代、小学生スタートのライバルに勝てなかった悔しさから、我が子が小学生になると卓球教室へ週に3回以上も通わせることに。そんなある日、子どもが「どうしよう、ヨーグルトこぼした」と、ヨーグルトがたんまりのったラケットを渡してきてズッコケました。
今月開かれた全国ホープス卓球大会でのこと。トーナメントが始まる前に一体何をやらかしているのか!!!
その5分前、会場から2階席に戻ってきた息子がラケットをリュックの上に置きました。私はそれを見るなり、「ラケットをカバンの上に置くな! すぐにケースにしまいなさい」と厳しく注意。「えっ、今すぐに?」と息子に言われてハッとしました。確かに。なにを神経質になってんだろう。自分だって試合が終わるごとにラケットをケースにしまう習慣なんてないのに。
振り返ると、つい先日、中国の王楚欽のラケットが五輪会場で割れた。それも混合ダブルス金メダル獲得の歓喜の中で。あの事件が衝撃過ぎて、ラケットの保全に敏感になっていたのでしょう。私は深呼吸して、「怒り過ぎちゃダメね。てへっ」と、頭に生えかけた鬼のツノを一旦収めたのに、収めたのに、収めたのに、
NYOKI—NNN!!! 「なに、ヨーグルトこぼしてんねん!!!」
私の怒号が試合会場に響き渡りました。そう、ここは東京体育館。東京オリンピックの卓球競技の舞台となったこの場所で、私は完全に赤鬼と化したのです。深紅のシートの上で、真紅のフェンスに囲まれて、真っ赤なウエアを着たじゅんみまが抱き合って歓喜した、この神聖なる場所で。
その怒りで手元が震えると、愛らしいイチゴ色のヨーグルトはラケットの上で広がり、容赦なくサイドテープの中へと流れ込みました。子どもを怒鳴り散らしたいけれど一刻一秒を争う状況。私はラケットの平衡性を保ちながら、もう片方の手で慎重にカバンからティッシュを取り出し、ヨーグルトをふき取りました。しかし、その作業中のわずかな傾きがあだとなり、ヨーグルトに押されてサイドテープが決壊。裏面の表粒の間にピンク色の残兵が進出しはじめたのです。
これは一番起こってはならないこと。私はゆっくりと立ち上がり、綱渡りをする曲芸師のようにバランスを保ちながらトイレへ。女子トイレの手洗い場につくと、ラケットを包丁持ちして現れたおばさんの姿に、周りで手を洗っていた女性たちが震えあがりました。けれど、そんなことを気にしている暇はありません。イチゴの甘い香りが女性たちの恐怖心を緩和してくれることを祈りながら、私は液体ソープのボタンに手をかけました。
と、ここである疑問が。そもそもラバーって石鹸で洗っていいものでしょうか? 洗って粘着がとれてしまったらどうしよう。かと言って、水洗いだけではベタつきが残らないものか?
立ち止まって考えているうちに、ピンク色の残兵の足音がずんずんと近づいてきます。コーチに聞きに行く時間はありません。どうしたらいいのか。いや、うろたえるな自分。WEBメディア・卓球レディースの代表を務めるなかで、幾度となくスピーディーな決断を求められるビジネスシーンがあった。それに比べれば、この状況下でヨーグルトをどう処理するか、判断はたやすいこと。
私は「しっかり水洗い」×「ラバークリーナー仕上げ」でこの局面を乗り切ることに。そして10分後、我ながら素晴らしい英断と自分に拍手をおくりたくなるほど、子どものラケットは母の丁寧な手仕事で息を吹き返しました。
「よかったー! ありがとう」。
美しく再生したラケットを手にするなり、ラバーの感触をたしかめてホッとした表情を浮かべる息子。私もその様子を見て全身の力が抜けるほど安堵しました。そして、なぜこのようなアクシデントが起こったのかと尋ねると、誰かの落とし物を拾おうとした瞬間に、そばにあったヨーグルトをこぼしてしまったのだとか。起こってしまったことは仕方ありませんね。ちなみに、この後、息子はシングルスでストレート負けを喫しますが……
「ラケットの影響で負けたわけではない。彼が強かったからだ」 王楚欽(たっきゅうぼ)談
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