「シュウ・シャオファがサンチャゴに来た。イサオいつサンチャゴに戻る」と慌てた様子で連絡してきた。年間を通して雨の多い7月中旬、南部第四の都市バルディビアValdivia市で2週間の長期合宿中にサンチャゴの親友からの電話であった。
この親友の指導者は、10数年前元チリ・ナショナルチームの中国人コーチの補佐をしていた人で、いつも当時の事を聞かされている。
この人が以前 Xu Shao Fa (許紹発) の奥さんがサンチャゴに住んでいた時の子供の名付け親でもあり、彼がチリに来るたび空港に迎えては自宅に招待し親交を深めている。
電話の内容は「Xu Shao Faが1週間サンチャゴに滞在するが、一緒に食事する時間が取れるか?」との確認電話だった。“チリ卓球の歴史を知る最適な人”として2013年10月赴任直後、最初に合宿した指導先のコーチから推薦され、既に2年近く親友として情報交換する仲間となっている。
Xu Shao Fa (日本語読みで許紹発 “きょ しょうはつ” と紹介されていた)。元中国ナショナルチームのコーチで「サービスの名手」として1970年代に活躍された名選手ももうすぐ70才 (卓球レポート発行の「この人のこの技術」で紹介されている)。イタリアで1年間コーチをし、現在は中国国家チームから離れ「 Xu Shao Fa 」ブランドの卓球用品を製造・販売している。今年からプラスチックボールの変更に伴い、早々と唯一 “ 繋ぎ目の無いボール” を世に出した。
チリでは親戚がサンチャゴ市内でスポーツ用品販売店を経営し、当然「Xu Shao Fa」ブランドを取り扱っている。親戚の経営者から連絡を受けた親友は「これは大変だ!」との思いから、僕に連絡をしてくれたがこの親友を知らなければ会う事もなかった。「人との繋がり・縁とは不思議なもの」と実感しながら、許紹発さんの短い滞在期間中に40年振りの再会が出来た。
日中友好親善試合で年2回日本と中国の各地での親善試合。当時の世界上位4カ国(中国、日本、スエーデン、ユーゴスラビア)で「世界4強リーグ」と冠し開催国を巡回し、バスの中や試合会場、練習会場、宿舎での会話(筆談と僅かな英語)も気軽に出来、気心が知れた懐かしい思い出と成っている。
特に、許さんとの一番の思い出は、日本での練習会場で1時間近く練習した時のこと。5~6分の乱打後、直ぐ「オール (サービスからのオールサイド練習) をやろう」とジェスチャで要求。40分以上黙々とこの練習だけをした。
2人でサーブ、3球目、レシーブ、4球目、スマッシュと自由にいつでも攻撃する練習内容は、当時の日本選手との練習の感覚と大きく違っていた。僕がレシーブミスを重ね「3球目のチェックや攻撃の練習がしたいのだろうな?」と恐縮する気持ちがあって、なんとかレシーブ出来る様に必死に返球した。レシーブミスや凡ミスにも全く気にも留めず、黙々と得意なサーブを長短緩急を織り交ぜ、思いっきり自分の練習をしていた。自分の得意サーブを秘密にする意思など毛頭ないと思われる練習内容だった。
このことを思い出し「サービスについてどう考えていたのか」と聞いた。「試合で勝つには、沢山の技術を練習しなければならないが、サーブは一つでも多くの種類をしかも一人で練習でき、試合に勝てる一番の訓練だ」との答えを聞いた。当時の練習がその考え方の延長線上で、相手がいようがいまいがサーブから展開する自分の作戦、技術のチェックが出来ればそれで十分だったのだ」と想像していた結果の話だが、直接本人の口から聞けた。何時の時代も変わらない大切な話だった。
同世代の懐かしい選手の名前が出され荘則棟、李富栄、徐寅生、希恩庭、梁戈亮、李振持、郭躍華 etc.。彼からは、荻村伊智朗、児玉、木村、三木、高橋、長谷川、伊藤、河野、高島 etc. また最近合ったと前原、横田等(敬称略)の名前も出て「今どうしてる? 元気か?」と懐かしく雑談できた。
当時の日本ではペンホルダーの前陣速攻型の選手がいなかった時代。僕がシェークで荘則棟さんの前陣速攻を目指していた頃、上海で大会があった時、ラケット工場で働いていた余長春さんから3本のシェークハンドを譲って頂き、それ以来その1本を今も使っている(41年間使用中)の話をしたら、流石 驚いていたが同時に余長春さんは今、カナダに移住しているとのことだった。余長春さんに会う機会があったら、是非「有難うございました」と伝えて欲しい旨お願いした。
世界は狭くなったとは言え、まさかアジアから一番遠いこの地で許紹発さんと40年振りの再会が出来るなど考えも及ばなかった出来事に運命を感じました。
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