私はあの日の飛行機での会話を覚えている。
「長い日本卓球協会の歴史を踏みにじるような人事であり、これは失礼なことだ」
兒玉圭司は1995年春、中国の天津での世界選手権に向かう飛行機の中で憤慨し、たまたま隣に居合わせた私に嘆きの言葉を吐き出していた。
その前年、盟友の荻村伊智朗(元世界チャンピオン・元国際卓球連盟会長)が亡くなり、日本卓球協会の理事会ではメディアがいる中で、荻村が協会の予算を私的流用したかのように、上層部を問い詰める理事がいた。その責任を取る形で、それまでの幹部が一掃され、人事は刷新された。
新しく任に就いた人たちはそれまでの日本卓球協会の歴史や経緯を無視するような発言を会議で行い、「荻村臭」のある事業をひっくり返していた。兒玉圭司はそのことに腹を立てていた。
それは同じく天津に向かっていた荻村の妻・時美(故人)も同じように無念な思いを抱いていた。荻村家に蓄財などなく、国際卓球連盟の会長の職はボランティアであり、無給だった。異常なまでに世界を飛び回り、世界中の協会と話し合いを持っていた荻村の活動費は膨大ではあったが、日本卓球協会が国際交流費として負担していた。
その費用が糾弾の対象になったのだ。それを私的流用と指摘し、黒歴史のように扱う新体制の卓球人。はたから見れば、今までの荻村の絶大な力への反発が一気に吹き出したように見えた。球友として、濃密な関係を持っていた兒玉にとって、それは耐え難いものだった。
兒玉圭司は東京都の都立城南高に入学する直前に卓球を始め、高校時代は東京都の代表ではあっても無名。しかし明治大に入学後、猛練習で腕を磨き、1956年世界選手権東京大会の代表になり、ベスト16まで進んでいる。
25歳の時に若くして明治大卓球部の監督に就き、26歳で関東学生連盟の理事長になり、同時に日本卓球協会の史上最年少の理事となった。
29歳の時には2歳年上の荻村伊智朗に口説かれ、1965年世界選手権リュブリアナ大会の監督に指名され、のちに1973年サラエボ大会、1975年カルカッタ大会の監督も務めている。
1961年から30年以上も、協会のために尽力し、荻村とともに会社、家庭を犠牲にしてきた兒玉は、荻村とともに日本卓球界の屋台骨を支えた自負を人一倍持っていた。
彼自身は兄とともに始めたダイコーというエレベーターの会社を離れ、1984年にスヴェンソンを設立し、年商が100億円を超える企業に育てた。ビジネスマンとしての情熱と才能も秀でていた。
そして卓球というスポーツと、明治大学卓球部に対してもその情熱が消えることはなかった。創部90周年を迎えた明治大卓球部の中で、兒玉が関わったのが65年間。選手として、そして監督、その後の総監督として、ひとつの体育会卓球部に65年も関わった人を他に知らない。まさに兒玉圭司イコール明治大卓球部だったが、3月31日に総監督を退任し、4月1日から元全日本チャンピオンの斎藤清が総監督に就任した。
やはり3月に日本学生卓球連盟会長を退任し、名誉会長に就き、明治大卓球部でも名誉総監督に名前を置くことになった。
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