「これだけの長い年月、母校の卓球部に関わり、情熱を注いだその原動力のひとつは、大学入学時、卓球は女・子どものスポーツだと言われた悔しさをエネルギーに変えたことだ」と兒玉は語る。「全日本の監督をやっていた頃、『明治が強くないのに何が全日本の監督だ』という風聞が私の耳にも入ってきた。『よし、それなら明治を強くしよう』と考え、徹底的に鍛えた」。兒玉を突き動かすエネルギーは卓球への情熱と反骨精神だった。
なかなか優勝できなかった明治大卓球部を常勝チームにして、明治からは8人の全日本チャンピオンが育ち、数多くの選手が日本代表に選ばれた。ヨーロッパのクラブスポーツに影響を受けた荻村はクラブスポーツ、兒玉は伝統の学生スポーツで切磋琢磨しようと誓った。
「思いは叶う」「努力は才能にまさる」。これは兒玉の信条でもある。「私のすべては卓球で培われた。すべては卓球のおかげなのだ。仕事で壁にぶつかったときでも、絶対諦めない精神力を私は卓球から学んだ」(兒玉)。
2018年からはKODAMA国際教育財団を設立し、「教育」、「健康」、「環境」の分野で社会と人々に貢献できるよう活動を行っていて、ラオスに学校を設立したり、日本卓球界で初めてとなる7歳以下の育成事業のプロジェクト「U-7卓球選手育成事業~未来のメダリスト~」を立ち上げた。
また後輩でもある松下浩二(VICTAS社長・前Tリーグチェアマン)が新しい道を進む時にはサポートし、水谷隼(木下グループ)が落ち込んだ時には励ましてきた。常に、卓球へのピュアな愛情に満ちているのが兒玉圭司という男なのだ。
五輪メダリストの水谷隼は以前のインタビューでこう語っている。
「私にとって兒玉圭司総監督との出会いと存在はとてつもなく大きいものである。兒玉さんの卓球への計り知れない情熱と私自身への期待と愛情を強く感じ、それに応えたいと思っている。そもそも私自身は人との関わり合いが少ないタイプなので、食事に行く人が少ないが、兒玉さんは唯一数多く会食をした人だ。社会人の大先輩としても、兒玉さんの経験に基づいた話というのはいつも私にとって新鮮で、未知なる想像を掻き立てるような内容だった。それは今でも変わらない。スケールの大きな話に私のモチベーションも上がる。兒玉さんから聞く話は、記憶に突き刺さるような内容だった」。
退任を発表したあとに直接、話を聞いた。
「周りの人は私が死ぬまで総監督を続けると思っていたと思う。しかし、2年ほど前から14年やった日本学生卓球連盟会長を退き、河田正也さん(日清紡会長)に引き継ぐことを考えていた。ちょうど明治の監督をやってから60年経ったので、日学連会長の退任と同じタイミングで辞めようと思っていました。総監督の後任も難しかったが、斎藤清君にお願いし、埼玉工業大の職員でもあるので、大学の承諾も得ることができました。
思い返せば、斎藤清君が大学に入ってくる前に28年ぶりに大学日本一を達成し、彼が入学したあとには大学チームでありながら、実業団を倒し、2年連続日本一を成し遂げた。その年は国内のタイトルを総なめにした。良き思い出です。
昔も今も『明治がやらねば誰がやる。打倒中国』の心意気は変わらない。たくさんの悔しい思いをして、それをエネルギーにも変えたけども、60年間やり切った思いです」(兒玉)。
これからは卓球界の大先輩として、明治と日本卓球界をサポートしていく。
兒玉圭司という人がいなければ、明治大が日本を背負うほどのチームになり、数多くのチャンピオンを輩出することはできなかっただろうし、日本の卓球界の歴史は違ったものになったかもしれない。
卓球を愛する86歳はまだまだ元気だ。日本の卓球界、学生卓球界を支えた兒玉だが、その原点は明治大学卓球部。その体には紫紺の血が流れているはずだ。
最後に兒玉本人が最近、明治大卓球部90周年記念誌のために書き記した言葉を引用しよう。これは明治大のためのものというよりも、卓球人のための言葉だ。
「私は骨の髄まで卓球に捧げ、心の奥底に明治の卓球部がある。そして、明治大学卓球部には『思いは叶う』という言葉が浸透していると自負している。それを『コダマイズム』と言う人もいる。君たち自身の夢と目標を強く思い続けてほしい。いつかそれは叶うはずだから」。
日本の卓球の歴史を明治大卓球部が担い、五輪メダリストの水谷隼が新たな歴史の扉を開いてきた。
そして、輝かしい勝利の陰にピュアな卓球への情熱を持つ、兒玉圭司のような男がいた。総監督を辞めても、コダマイズムという魂(スピリット)が消えることはない。(文中敬称略)(卓球王国発行人 今野昇)
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