ゲイ・カレン/ニ・シアリエン
Ni Xialian
今日、7月4日に58歳を迎えるベテラン倪夏蓮。
世界の卓球界の中で異彩を放つペン粒高攻撃プレーヤー。
中国の上海で生まれ、14歳で上海代表チームにスカウトされ、
16歳の時に国家チームに入った。
左ペン表ソフト速攻スタイルで、中国選手権で2位までいったが
世界選手権の代表を勝ち取るために粒高に用具を変更。
しかも、守備的な粒高選手ではなく、攻撃的な異質攻守型として
中国代表として1983年世界選手権で団体・混合複の2個の金メダルを獲得した。
1989年にドイツ、翌年ルクセンブルクに移り、
ヨーロッパ選手権で優勝するなど活躍。
東京五輪は5回目の五輪、58歳は最高年齢選手である。
インタビュー=今野昇
【プロフィール】
倪夏蓮(ゲイ・カレン/ニ・シアリエン) ルクセンブルク
Ni Xialian
1963年7月4日生まれ、上海で生まれ、14歳で上海代表チームに入る。のちの世界チャンピオンとなる曹燕華(1983・85世界チャンピオン)、何智麗(のちの小山ちれ・1987年世界チャンピオン)、卜啓娟(中国代表)とともに国内最強チームの一員だった。
1983年世界選手権に初出場。団体優勝メンバー、混合ダブルスでも優勝。1985年世界選手権でダブルスでメダルを獲るも、大会後に国家チームを離れた。
その後、1989年にドイツに渡り、1年間ブンデスリーガでプレーした後に、ルクセンブルクに移り、ヨーロッパ選手で2回優勝、ヨーロッパトップ13で3連覇。五輪は2000年シドニーが初参加、その後、2008年、2012年、2016年、そして東京五輪に最高齢選手として5回目の出場。世界ランキングは最高位6位(1985年)、ルクセンブルクに移ってからも2002年には世界ランキング8位になっている。2020年にVICTASと契約し、『カールP1』『VO>102』を使っている
●ーー1983年の世界選手権東京大会のことも覚えてるけど、そこで女子団体と混合ダブルスで優勝している。初の世界選手権でしたね。
倪夏蓮 あなたが長くこの世界で取材しているのは知っているわ。あの頃、私たちも若かったわね(笑)。初の世界選手権でしたね。16歳の時、1979年に中国の国家チームに入り、1981年の世界選手権ノビサド大会にも出場するチャンスがあった。その前の中国選手権で2位になっていたけど出られなかった。当時は国内で勝つことも国家チームに入ることも大変だった。
1985年世界選手権にも出て、女子ダブルスで準優勝、混合ダブルスで3位だったけど、中国では優勝しなければ成功したとは言えない。
●ーー出身は?
倪夏蓮 上海で生まれて、上海で育ち、14歳の時に上海の代表チームに入りました。83年の全中国運動会でも上海は優勝しました。
●ーーあなたの上海でのコーチはその後日本にも来た楊瑞華(ヤン・ルイホア)さんですね。
倪夏蓮 よく知ってるわね。楊さんはとても頭の良いコーチだった。技術面だけでなく戦術面での指導も素晴らしかった。楊さんに会えたことがとても幸運だった。
●ーー楊さんの指導は有名で、特に当時の上海チームは戦型が多彩だったんですね。
倪夏蓮 そうなんです。サウスポーで粒高を使う私と、世界チャンピオンになったペンホルダードライブの曹燕華、シェーク両ハンドの何智麗(のちの小山ちれ)、カットマンの卜啓娟(プー・チージェン/1981年世界選手権ベスト8)がいました。この4人が4つのプレースタイルでした。4人は用具も違うし、長所も違うし、戦術も違うけど、チームとしたら非常に強いし、楊さんはそれぞれの長所を引き出していました。
●ーーあなたはいつ粒高ラバーを使い始めたのですか?
倪夏蓮 79年に国家チームに入り、82年に粒高に変えました。それまでは片面だけを使う、表ソフトの速攻型でした。そのプレースタイルで中国選手権で2位になっていました。でも首脳陣は私の力はまだ十分でないと思っていたし、そのせいで81年ノビサド大会には選ばれなかった。もちろん私はがっかりしてたし、82年に国家チームのコーチだった周蘭孫が、担当コーチではなかったけどアドバイスをくれたんです。当時の私は練習の虫で、練習中のボール拾いも走ってボールを取りに行って、「私にはもっと時間が必要なの!」と言ってました。
そんな私をノビサドの代表から外したことを後悔していたんだと思うけど、同時に私の卓球を危惧していた。速すぎる卓球を少しスローダウンさせたいと。そのために粒高を使うのはどうだろうと。しかし、誰も決断はできなかった。なぜなら、それをやってもし失敗したら、私の選手としてのキャリアが終わるからよ。最終的に、私自身が決断したんです。誰も私が成功するのか失敗するのかわからない。もしダメだったら、私の卓球人生は終わりになるんだから。
粒高に変えてから3カ月後の国内選手権では成績も良くなくて、私は自分の試合に混乱していました。その時に孫梅英コーチが寄ってきました。彼女はとても親切で、正直な人でした。「倪夏蓮、何を焦ってるの? まだ3カ月しか経っていない。多くを期待したらダメでしょ。もう少し時間がかかるんだから」と諭してくれました。
私は新しいスタイルで成績を残せなければ国家チームから外され、私の卓球人生も終わる。焦ってはいたけど、孫コーチの言葉に救われました。
●ーーその頃、使っていた粒高は?
倪夏蓮 上海の『永(ユン)』というラバーを使っていた。その8カ月後に私は国内の試合で再び2位になりました。ハードな練習も自分に課した。83年の世界選手権のあとの全中国運動会で上海は優勝した。4年に1回のこの大会で勝つことはとても大変なことなのよ。
●ーー1979年世界選手権平壌大会では、同じ粒高の葛新愛(中国)が優勝しているけど、彼女は守備型だった。あなたとは違いますね。
倪夏蓮 そうそう。それはとても良い質問ですね。国際卓球連盟には「倪夏蓮、あなたは世界卓球史上、粒高を使った初めての攻撃選手ですね」と言われました。もともと葛新愛は9歳の時から粒高を使っていたし、守備選手だったけれど、私はもともと表ソフト速攻型だった。基本的な技術が全く違う。粒高での攻撃スタイルというのは、基本的な技術がなかったらできないんですよ。
●ーーその頃はあなたの粒高は一枚ラバーですか? それともスポンジなし?
倪夏蓮 スポンジ付きの時もあったし、スポンジがない時もあった。もちろんスポンジがあれば攻撃はしやすいし、スポンジなしではさらにボールはゆっくりと飛んでいく。
<後編へ続く>
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