<卓球王国2016年6月号>
日本の卓球の歴史を変えた中心に水谷はいた。長く低迷した日本男子。
2006年世界選手権ブレーメン大会では史上ワースト記録の14位に沈んだ。
その中に、当時16歳の水谷隼はいた。
世代交代の狭間とは言え、屈辱の視線を浴びることになる。
しかし2年後の広州大会では、見事に浮上し、
3位に入り、銅メダル獲得は2014年大会まで4大会連続で続いた。
そして2016年3月5日にイングランドを破り、
日本は39年ぶりの決勝進出を果たした。
この試合で2勝した日本のエースはあの時、
何を思い、今何を語るのだろうか。
聞き手=今野昇
写真=アン・ソンホ
2016年世界選手権クアラルンプール大会。閉ざされていた日本の男子卓球の歴史が変わった。
大会前からドイツのオフチャロフが欠場、ボルの出場も微妙という情報が流れている時点で、「日本の決勝進出の可能性は高い」と関係者は感じていた。しかし、すべての日本選手の世界ランキングが高い中で、選手たちは「格下との戦い」に苦しむ。
日本チームの中で核となったのはやはりエース水谷隼の存在だった。彼が試合に出るだけで他の選手に余裕ができるのは明らかだった。しかし、逆に言えば、それは「勝って当たり前」の重圧を彼が受けることになる。
日本のエースは、大会が始まった時から何を考えていたのだろうか。
◇◇◇
●――世界選手権団体戦は6回目の出場だったけど、今回の大会への入り方はどうだったんだろう?
水谷 腰とか肩とかの故障もあり、結構痛みが出ていました。あまり良い状態ではなかった。不安はもちろんありました。大会前に1週間ほど合宿はありましたが、ほとんど練習はできなくてリハビリのようになってました。でも本番では何とかなるかなと思っていました。久しぶりに不安な状態で迎えた大会でしたね。
●――現地に入っての調子は?
水谷 まあまあでしたね。
●――前半のグループリーグは?
水谷 ある程度対策は考えていましたが、サムソノフ(ベラルーシ)やガオ・ニン(シンガポール)が出てこなかった。彼らと試合をやりたいという気持ちもあったと同時に、出てきたら日本は厳しかっただろうからラッキーだなという気持ちもありましたね。
●――拍子抜けはしなかった?
水谷 それはなかったです。ただシンガポール戦や他のチームとの試合でも、グループリーグでは自分以外の日本選手もあまり調子が良くなかった。
●――それはなぜなんだろう。
水谷 慣れない会場も原因でしょうね。本会場でも1回しか練習できなかったから、慣れることができなかった。
●――水谷君は卓球台のバウンドなどをしっかりと把握して、バウンドを予測していくタイプの選手。床やエアコンの風の影響もあったし、卓球台のバウンドを気にする選手もいた。
水谷 卓球ができるような状況じゃなかった。最低限の条件を満たしていなかった。まず気になったのは照明で、光が台に反射してボールが見えないサイドがある。風も舞っていたけど、それよりも照明だった。後半になって、日本チームの台が移動した後はまだ良かったけど、大会の前半は日本の台(テレビ用コート)は固定されていたのできつかった。
壁側を背中にしてベンチのほうを向いた時が見えなくて、特に左利きのフォア側から相手のバックサイドを見た時に全然見えない。だから右利きのサービスが見えない。右利きの選手はあまり気にならないかもしれないけど、左利きの選手はきつかった。
●――どうやってその問題を自分でコントロールしたんだろう。
水谷 ただ相手に恵まれただけです。強い相手が来たら厳しかった。
●――ポルトガルのモンテイロに負けて、グループリーグでの連勝記録が止まった。
水谷 2ー0の3ゲーム目、7ー4でリードしたところで油断しました。リードしていたけど、なぜこの内容で自分がリードしているのかよくわからない状況だった。環境の悪い中で、相手がどうこうじゃなくて、点数を取れないような状況でリードしているのがわからなかったし、いつ逆転されるかわからない危機感があった。1本1本、自分のやりたいことが全くできなかった。
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