まさに「ピンポン外交」の主役を演じた荘則棟は、否応なしに政治の舞台に足を踏み入れていく。74年には国家体育運動委員会主任、つまりスポーツ大臣に任命され、人生のもうひとつの頂点に向かって進んでいった。
しかし、時を同じくして当時の中国では、江青(毛沢東夫人)、王洪文、張春橋、姚文元と極左グループ、いわゆる四人組が中国共産党の中でその発言力を強め、権力を引き寄せていく。
76年1月に周恩来総理が死去、9月9日に毛沢東主席が死去し、代わって主席になった華国鋒が10月6日に四人組を逮捕した。
四人組に加担したとして荘則棟も失脚、4年間投獄された。まさに天国から地獄へ落下していくかのごとく、栄誉と恥辱を味わうことになる。
この頃の話について荘則棟自身は多くを語ろうとしない。その後、荘則棟は山西省の卓球チームのアドバイザーになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
私自身の才能を感じるのは卓球であって、政治ではないのです。書くことはできますが政治家ではない。でも政治の世界に入る前に、国家体育運動委員会主任の王猛からは「あなたにとってもっと大事な仕事があります」と言われていました。
中国チームの最初の監督を務めた梁 輝という人が、文化大革命の後期に私が過ちを犯した時に非常に惜しんでいた。「数多くの選手を教えたけれども、一番卓球に対して研究して、自分を高めた人は荘則棟だった」と彼は言ったそうです。「彼は政治ではなくて、スポーツの世界で生きるべきだった。政治の世界に入ったからこういう過ちを犯した」。私に直接は言わずに、ほかの人にはそう言っていたそうです。
この話からもわかるように、私には卓球に関しては才能はあったのですが、政治の舞台は私のいるべきところではなかったのです。74年に就任した国家体育運動委員会主任(スポーツ大臣)には四人組が倒れるまで2年半ほど就いていました。
四人組事件が起き、審査を受けている時でも私は一生懸命本を読んで勉強しました。それまであまり勉強をしていなかった分を自分で取り戻そうとしました。理論的にも文章的にもいろいろな勉強をして、今ではそういうことはよくわかるようになりました。知識的なこと、理論的なことを研究し、勉強した時期でした。
1980年10月から2年と4カ月、私は山西省に住むことになりました。
中国ではそれぞれの省に優秀な選手がいたらナショナルチーム(国家チーム)に送り込むシステムがあり、そのあとナショナルチームのコーチがその中から代表を選びます。ナショナルチームのコーチが省に下りていって有望な選手を選んだり、省のチームに行って教えて強くした例は過去にはなかったのです。
私が行った当時、山西省は中国の中で男子が20位台で、女子は16位か17位くらいの強さでした。ナショナルチームに入っている選手はひとりもいなかったのです。ところが、選手、そしてコーチみんなで努力して、2年4カ月後に、山西省の女子チームがナショナルチームの女子を完全に打ち負かしそうになったのです。
山西省の女子チームには管建華というカットの選手がいて、1980年にジュニアナショナルチーム(国家チーム2軍)に入りそうになったけれども、結局は選ばれませんでした。当時、管建華を教えた時に、いくら教えても童玲(1981年世界チャンピオン)に勝てないと言われていました。私自身、カットマンにはとても強かったので、カットマンである管建華に攻撃選手の立場で教えることができました。つまりどういうカットマンが嫌な相手なのかという視点です。
まず彼女には、最初にカットではなくて攻撃を教えました。次にカットを教える時に「童玲と同じカットをしていたら、あなたは勝てないでしょう」と言い、意識改革をしました。「まずカットは切り下ろす感覚でやること。あとは守る時にはロング性のブロックも入れたほうがいいだろう」。私が2年4カ月に亘って管建華を教えたあとに、ナショナルチームは彼女を呼びました。呼んだからには主力になって世界チャンピオンに育てようと思って呼んだと思います。彼女は87年ニューデリー大会に出場しましたが、残念ながら準決勝で「何智麗事件」が起きました。
* 「何智麗事件」とは、1987年世界選手権ニューデリー大会の準決勝で、何智麗(のちの小山ちれ)と管建華の同士討ちとなり、「管建華が勝つ」という上からの指令を拒絶し、何智麗が勝った試合のことである。しかし、一方の管建華も「自分が勝つ」という指令を信じていたものの、試合中にそうでないことがわかって心の準備もないまま敗れてしまったという一面もある。
ツイート