<卓球王国2003年7月号より>
【ピンポン外交50周年】
中国
Vol.1
Chuang Tsetung
3大会連続世界チャンピオンという偉業。
文化大革命でその栄光が途絶えたものの6年後に復活。
世界史を動かした「ピンポン外交」の主役を演じ、スポーツ大臣として脚光を浴び、
さらにその後失脚、という波乱に満ちた人生を送った
伝説のチャンピオン、荘則棟。赤裸々に彼は「自分史」を語った。
インタビュー・写真 ● 今野 昇
通訳 ● 杜功楷・鄭慧萍
中国で荘則棟の名前を知らない人はいない。61年からの世界選手権シングルス3連覇。それは、49年に建国した新生中国を象徴するスーパーヒーローの誕生だった。その後、スポーツ大臣まで上りつめたあとに失脚し、中央の舞台から忽然と姿を消した。
中国の自由化、開放政策とともに、名誉回復。96年に発行した自叙伝が60万部のベストセラーになるなど、再び卓球界にその姿を見せた荘則棟。
2003年3月28日、場所は北京。朝から夕方まで7時間を超える独占インタビューが始まった。しかし、それは彼の波瀾万丈の人生を語るには短すぎたのかもしれない。
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人間一人ひとりは誰でも物語のような経験を積み重ね、一冊の本になるような人生を送るものです。しかし、たぶん、中国の卓球界で、私ほど特別で、伝説的な経験を持っている人間はいないのではないでしょうか。
私の今までの人生というのは、4つの特別な物語から成り立っています。ひとつは家族、2つ目は経歴、3つ目は卓球の成績、4つ目は結婚。それぞれがほかの人とは違う特別なものです。
私は1940年8月7日に揚州で生まれました。ここは鑑真和尚の出身地です。6人兄弟の5番目として生まれ、上に男2人、女2人、下に妹がいます。卓球は8歳か9歳で始めましたが、ほかの兄弟は誰も卓球をやっていません。
私の卓球の経歴を話すとなると、自分の家族の話からしなければいけません。
私の家庭、家柄は知識階級というか文化人と言うべきカテゴリーでした。父は杭州出身で、母は北京出身、父方の祖母は揚州の出身です。父と母が揚州に祖母の墓参りに行った際に日中戦争が勃発して、南から北に行く交通が遮断されたために5年間住むことになり、その間に私が生まれました。ところが、私はそこの気候に慣れなくて、病気ばかりしていたそうです。私は小さい頃、体がとても弱かったのです。
1945年に戦争が終わり、南北の交通も元に戻って、父は家族を連れて北京に向かいました。その時、私は5歳。体重は15kgで、とてもやせていました。父は6歳の時に私に武術を始めさせ、11歳の時まで6年間続けました。
8歳か9歳の時に学校に入り、体も小さく丈夫でなく、バスケットボールをやるには背が届かず、サッカーをするには体力がないために、結局卓球を選びました。最初は卓球というよりもただの遊びでした。当時は誰にも教わることなく、コーチと呼べる人もいなかったのですが、武術よりは卓球のほうがおもしろかったし、遊びながらも、私は卓球に魅力を感じ、強く引き込まれ、この遊びからもう離れられなくなりました。10歳を過ぎたあたりから多少勝負にこだわるようになったものの、それまではずっと遊びとして卓球をやっていたのです。
ただ、私が卓球を通じて、国のために頑張ろうと決意した、ひとつのきっかけがあります。
それまで中国にはスポーツの世界的なチャンピオンは誰もいませんでした。当時は、中国人を「東亜病夫」と呼び、東アジアの病人という意味で、差別的な呼び方をされていたほどです。その頃、インドネシアから中国に帰国した華僑の水泳選手で、呉傳玉という選手がいて、彼が国際大会で優勝して、その時に中国選手として初めて国旗を揚げて、国歌が流れるといううれしい出来事がありました。
当時、私は新聞で、その呉傳玉の優勝によって、その大会開催地の中国大使館の大使、大使夫人、そしてコックさんまでがうれし涙を流したという記事を読みました。これは1954年の出来事です。その時、私は心の中で、「卓球で国のために頑張ろう」と誓いました。
同じく54年、14歳の時に自分の中での大きな出来事がありました。それは、中国のダライ・ラマとパンチャン・ラマによって、ある儀式の中で私の頭に手かざしをしてもらったことです。もちろん、誰でもその儀式を受けられるわけではありません。
私の祖父はアジアの大富豪でした。かつ49年に新しい中国が成立したあとに、私の父は仏教界でリーダー的な地位の高い人だったので、その儀式に出て、私はふたりから頭に手をかざしてもらうことができたのです。これも私の中での特別な経験です。
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