11月13日、千葉県の船橋アリーナ。卓球のパリ五輪選考会である「全農カップTOP32」が終わろうとしていた。
記者団が待ち受けるミックスゾーンに伊藤美誠(スターツ)がいた。話し始めると、その目は涙であふれた。そんな伊藤美誠は見たことがない。どんな大舞台でも「緊張しない」と豪語し、東京五輪のシングルス銅メダルを獲得した時にも、宿敵中国に負けたことで満足できないと語るほど意識の高い、日本を代表する卓球選手だ。
その彼女が泣いている。前日、準々決勝で平野美宇(木下グループ)に完敗。負けたらコートをあとにして、体を休め、次の目標に気持ちを切り替えたいところだが、翌日の順位決定戦でもラケットを握らなければいけないのが、選考ポイントが与えられる代表選考会に出場する選手の定めでもある。
「どちらかというと精神的にも肉体的にも疲労がたまりすぎていたところはありました。頭もやっぱり働きづらいし、頭と体がついてこない感じがあって、今日は正直、挑戦者の気持ちでいても、ボロボロというか……。卓球がボロボロというより、考え方だったり、体が疲れすぎてついていけない。頭で思っていることを体ができていないという感じです」
「自分じゃないみたいな体ですね。試合が多いことはすごく良いことなんですけど、正直負担が自分にかかりすぎている。もうちょっと国内の選考会に集中したいという気持ちはすごくあるんですけど、ここを乗り超えていかないといけない。
試合をやりすぎて、いったん休憩したいっていうか……。休憩したいっていうより練習したいです。もちろん練習は試合のためにするんですけど、今は試合のために(調整の)練習をしてばかりなので、もっと自分が満足いくまで、練習できるような日程があればいいなと思う」(5位決定戦で敗れた後の伊藤美誠のコメント)
以前、多くの大会に出場することでいろいろなタイプの選手と試合ができることを楽しみにしていた伊藤美誠。しかし、8月以降のこの3カ月間で計9大会(Tリーグ3試合を含む)をこなしていた。
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・8月13・14日 パリ五輪選考会・Tリーグノジマカップ(個人戦)
・9月3・4日 パリ五輪選考会・全農カップTOP32福岡大会
・9月10日 Tリーグ開幕戦
・9月23日 Tリーグ
・9月25日 Tリーグ
・9月30日〜10月9日 世界選手権成都大会
・10月19日〜23日 WTTチャンピオンズ・マカオ
・10月27日〜30日 WTTカップファイナルズ・河南省新郷
・11月12・13日 パリ五輪選考会・全農カップTOP32船橋大会
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選考会2日目、5位決定戦で14歳の張本美和にストレートで敗れ、記者の前に立った伊藤美誠。その涙は後輩に負けた悔し涙ではなかったはずだ。
彼女は東京五輪で水谷隼との混合ダブルスで金メダルを獲得したが、さらに彼女は中国に勝ち、五輪の頂点に立つことを狙っていた。東京五輪後に彼女は、自分を跳ね返した中国選手への敬意とともに、アスリートとしてそのライバルたちに追いつき、さらに超えていこうとする高いモチベーションによってパリ五輪へ踏み出した、はずだった。
東京五輪から間もない昨年11月のヒューストンでの世界選手権では準々決勝で王芸迪(中国)に1−4で敗れ、さらに今年、WTTグランドスマッシュ、などの主要な国際大会でも勝ち切れない伊藤美誠がいた。それは10月の世界選手権団体戦の中国との決勝でも同じだった。
世界団体のあと、マカオ、新郷(河南省)でのWTTチャンピオンズ、WTTカップファイナルズと転戦した伊藤。志の高い彼女は、中国との差を縮めたい一念で、そのための訓練をしたいに違いない。一方、中国はその王座を守るために「伊藤美誠対策」を徹底的に行っている。伊藤は、中国に勝つための練習の必要性を誰よりも感じていただろう。
その伊藤の前に立ちはだかったのは、中国選手ではなく「国内選考会」という壁だった。
選考会で敗れた後、伊藤の目を濡らした涙の意味は、負けた悔しさではなく、「中国に勝つための練習ができない悔しさ」ではなかったのか。中国に勝つことで頭がいっぱいの自分が日本へ帰り、ボールも違う選考会のために調整を余儀なくされることへの苛立ちなのか。
同じ卓球であっても、国際大会での戦いと国内での戦いは違う。中国に勝つことを考え、訓練を重ねれば、その過程で日本選手にも勝つのが当然と考えるのは正しくない。
今の日本には伊藤と肩を並べ、世界に挑もうとする早田ひな(日本生命)、平野美宇(木下グループ)、石川佳純(全農)がいて、世界ランキング最上位の5位の伊藤とのランキング差もわずかだ。その下には若手の木原美悠(JOCエリートアカデミー/星槎高)、長崎美柚(木下グループ)、芝田沙季(ミキハウス)、気鋭の張本美和(木下グループ)が控えている。史上最強と言われる日本女子の層の厚さと、日本卓球協会が突きつけた「パリ五輪代表のための選考方式」が、伊藤に休息や訓練のための時間を与えることを許さない。
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