2月20日発売の卓球王国最新号の卓球マンガ「卓球ものがたり」に登場するのが世界でもっとも早く粒高ラバーを使い、活躍した選手、張燮林だ。
2010年にインタビューしたものをアーカイブとして紹介しよう。
当時の中国卓球界、そしてなぜ粒高ラバーが誕生したのかがわかる。
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<卓球王国2011年3月号より>
チャン・シエリン Zhang Xielin
張燮林は、1960年代、
荘則棟、徐寅生、李富栄などとともに
中国の第一期黄金時代を築いた。
現役時代は魔球と呼ばれたカットを操り、
特に日本選手に対しては圧倒的な強さを見せた。
インタビューの冒頭で、
「私の卓球歴は長いぞ」と目を細めた張燮林は、
中国卓球の歴史そのものかもしれない。
「1960年12月20日に北京へ向かった。
その日をはっきり覚えているんだよ。
これによって、私はそれから数十年近く、
ずっと卓球と付き合うことになるんだ」
インタビュー=今野昇
通訳=偉関絹子
翻訳協力=謝静
写真=渡辺友
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1940年6月に張燮林は江蘇省で生まれ、上海で育った。1949年に中華人民共和国として産声を上げたばかりの中国で、少年時代の張は卓球と出合う。中国における卓球の原風景というのは、日本のそれと似ている。当時中国でも、学校の机や、家の台所のテーブル、路地裏の戸板などで、本や木の切れっ端をネット代わりにして、子どもたちは卓球に熱中した。張燮林と卓球の出合いもそんな上海でのひとコマに過ぎなかった。
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1950年代、私の小さい頃、小学校で行われたスポーツの種目は非常に少ない。だいたい女の子は縄跳び、羽根けりで、男の子はサッカー、それから卓球だった。
私が育った上海は人口が多く、場所も狭いし、小学校の校舎や設備は粗末だった。学校には卓球台が一台しかなかった。そのままホールに置いていたけど、ボールを打てるのは3年生以上の生徒だけだったので、3年生になることを待ち望んだものです。3年生になり、やっと卓球台で打つことができたが、ひとり一球ずつしか打てない勝ち抜き方式で、打ちたい生徒が常に長い列を作っていた。今みたいにいっぱい打てる環境と違ってね、みんながすごく並んだものだよ。私が卓球に興味を持ち始めたのはその時からだね。
学校にいる間、ボールを打てるのは授業と授業の間の短い休み時間だけだった。その時、私はすでに卓球にはまっていて、少ない練習時間にもう満足できなかった。
そのために、放課後、近所の友だちとそれぞれの家にある洗濯板を持ち出した。両サイドにカバンを置いて、洗濯板をつなぎ合わせて作った台板をその上に乗せて、1本の竹棒でネットの代用として簡易的な卓球台を完成させた。そのような台を使って、いつも友だちと卓球を楽しんでいた。学校で遊ぶ時と違って、いつも4、5人の仲間と11本の勝ち抜きゲームをやっていたね。これがきっかけで、自分とその4、5人の友だちは、他の生徒より練習が多くでき、だんだん上手になって、卓球に対する興味はさらに深くなった。
その後、練習していくうちに、やはり2枚の洗濯板で作られた台がだんだん小さく感じてしまって、ちゃんとした台で打ちたいと思った。物足りないと感じた仲間のひとりが市場にあった台を見つけてくれた。それは魚を並べて売る板の台だった。朝市が終わったら、必ずきれいに掃除されていて、カバンの上に置いたらすぐに使えるものだった。台が大きくなったことによって、ますます意欲が出て、ますます卓球にはまったんだ。
魚や野菜を売る市場の台は、卓球台と比べると短いが、長さも幅もだいたい卓球台の三分の二くらいある。洗濯板の台よりはるかに良くて、高さもちょうど良かったね。
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