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インタビュー

卓球と水谷先輩を通じて、会社を広く知ってほしい

4月1日から水谷隼(木下グループ)とスポンサー契約を締結した株式会社シモジマ。この契約をまとめたのは、明治大卓球部OBで水谷の後輩にあたる平岡和博だ。

 

 

高身長でイケメン。細身のグレーチェックのスーツを着こなして、さっそうと現れた青年は、刑事ドラマで見る若手俳優のような佇まいを放つ。
1920年に包装材料の卸問屋『下島商店』として創業し、2004年に東証一部上場企業となった株式会社シモジマ。そのシモジマの最年少係長であり、バリバリの営業マンとして働く平岡は、遊学館高と明治大という国内屈指の強豪校で腕を磨いた卓球選手だった。

「明治大卓球部の監督をしていた父(義博さん)の影響もあり、地元調布市の調布第七中学で卓球部に入り、そこから本格的に卓球を始めました」
顧問の先生は卓球経験はなかったが、部活の時間はしっかりと作ってくれたという。「中学の部活後に塾に通ってから、父が監督をしていた明治大の練習場に行って、寮で休んでいる大学生にお願いして練習をしてもらっていました」

そうした努力の結果はすぐに成績にあらわれる。中学1年では地区大会で敗退したが、翌年には個人戦で関東大会に出場した。中学最後の総体で全中(全国中学校大会)を目指したが、関東大会を突破することができず、夢は叶わなかった。「全中は憧れの舞台でしたし、目標にしていましたが、振り返ってみれば当時の自分では実力が追いつかなかったと感じます」
勉強もがんばっていた平岡は、高校進学にあたり、卓球と勉強のどちらを選ぶか悩んだ。「口には出しませんでしたが、おそらく母は勉強を選んでほしかったと思います。でも、最後は自分で卓球を選びました」と石川県にある強豪校の遊学館高に進んだ。「父が植木先生(遊学館高卓球部監督)と親しく、父からの勧めもあり、遊学館高に行かせてもらいました」
遊学館高では想像以上に厳しい練習が待っていた。「たくさん練習ができたのでそれはうれしかったんですが、植木先生の指導は厳しかったです。途中で逃げ出したくなるほどの厳しさでしたが、日に日に自分が強くなっていることが実感できていたのでうれしかった」

入学時に同期が7人いて、「1番下か、下から2番目のレベル」だった平岡は、わずか2カ月後のインターハイ石川県予選で勝ち上がり、1年でインターハイ出場を手にした。「入学から2カ月の間の猛練習の結果、だんだんと部内でも勝てるようになってきていたので、もしかしたらチャンスがあるかもしれないと思っていました」
インターハイではシングルスは2回戦で敗れたが、団体戦のベンチ入りを果たしていた。団体戦では起用されることはなかったが、準々決勝で優勝候補の青森山田高と対戦。高校生ながら全日本チャンピオンになっていた憧れの水谷隼が目の前でプレーしているのは、「夢のようだった」と言う。「卓球雑誌の中でいつも見ていた水谷選手と卓球台を挟んで並ぶことができるなんて、自分にとっては夢を見ているような出来事でした」

 

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