料理人の道を邁進していた渡邊剛が、事故で車椅子生活となったのは32歳の時。しばらくは料理の道を続けるも断念し、失意のどん底に陥ったその時、劇的な出会いがあった。
中高時代は卓球漬けの生活だった渡邊。85・87年世界王者の江加良(中国)に憧れ、ビデオを擦り切れる程見てペン表のショートを真似した。部活第一の生活を送り、嘉穂東高時代には福岡県大会にも出場した。大学の卓球部では求めていた部活とは違い、卓球はやめてバイクにのめり込む。そして卒業後は、かねてからの夢であったフランス料理の道に進んだ。都心のレストランで腕を磨き、マネージャーなども務めた渡邊だが、06年にバイク事故を起こし、せき髄を損傷。
「7ヶ月入院し、リハビリ生活中に、勧められて車椅子卓球をやってみました。それなりに自信があったのですが、いざやってみるとペンでは全く面が出せず、その時の一度きりに。その時は『この体でどうやってフランス料理をやっていくか』しか頭になかったですね」
退院後も料理への熱意は衰えなかった渡邊は、車椅子で料理の仕事を続けたが、いつしかそれは負担となっていった。
「お客様のクレームが入り、支配人の私がうかがいに行くと、お客様が車椅子の私を見て遠慮してしまうことがあった。気を遣わせていることが嫌でした。料理が好きで頑張ってきたけど、次第にそれを楽しめなくなってしまった」
こうして12年秋に料理の仕事を断念。「この先、人生をどうすればいいのか分からなくなり、生きる意味も見失ってしまった」という。しかし失意の最中で運命の出会いがあった。ちょうどその頃、存在を知ったのが車椅子マラソンの洞ノ上浩太(ほきのうえ・こうた)。北京、ロンドン、リオと3大会連続でパラリンピックで入賞を果たした日本の第一人者は、実は渡邊の中学時代のクラスメイトであり、奇しくもバイク事故で車椅子生活になった境遇まで同じだった。早速メールで連絡を取り、11月に開催された東京のイベントで元級友とおよそ四半世紀ぶりに再開した。
「彼は日本を代表するアスリートになっており、また見るからにアスリートという体つきで、本当にかっこ良かった。そんな彼が私に卓球再開を勧めてくれ、『次はパラリンピックで会おう』と言ってくれたんです」
元級友の一言で、渡邊の心に再び火が灯った。すぐさま、当時最強だった張継科(中国)が使うラケットとラバーを買い揃え、練習を開始、大会にも出場を始めた。また30㎏もダイエットし、障害者スポーツトレーナーの指導を仰いで本格的な体作りにも取り組んだ。競技は違えど、明確な目標となる洞ノ上の存在は大きいものだった。
「最初の頃に見た車椅子卓球のプレーの動画は、ツッツキばかりだったんですが、何か違うと思いました。やはり卓球は打って決めるものという考えがあった。『ならば私がそういう卓球をしよう!』って思いましたね」
モチベーションは高かった渡邊だったが、問題だったのは、車椅子で練習できる環境だった。東京2020開催が決まる前で、現在以上に車椅子で卓球ができる体育館は限られていた。
「当時、都内5ヶ所の体育館に問い合わせて、可能だったのは1ヶ所のみ。民間でもバリアフリーの卓球場はなく、思うように練習はできず、個人で台を持つ方にご協力いただいて練習をしていました。14年には国際クラス別パラ選手権でベスト4に入り、翌年から国際大会に出場できるようになったけど、このままの練習環境では厳しいと感じ、地元・江戸川区の卓球連盟や区などに問い合わせたんです」
そこで紹介されたのが、ちょうどその頃に江戸川区でオープン予定だった卓球場「T.T Labo」だった。
「オーナーの宇田川さんと出会い、オープン直後のT.T Laboでテストで打たせていただいた。バリアフリーで入れて、車椅子対応の卓球台もある素晴らしい環境でした。民間卓球場でバリアフリーの場所は、他にはほとんどないんです。それ以来、そこを本拠地として卓球をさせていただいています。
宇田川さんには『どんな感じでやりたい?』と尋ねられたので、『部活みたいにお願いします』と答えました。多球練習で、他のコーチ陣に球拾いをしていただきながら、20分連続で続けたりもしています。車輪を持つ左手が汗で滑って、ヘトヘトになりましたね。学生時代にもやっていなかったような練習ができて、喜びでしかありません(笑)」
渡邊は18年にシスコシステムズ(同)にアスリート採用で入社。東京2020大会のネットワーク製品におけるオフィシャルパートナーを務めたシスコシステムズは、石川佳純と張本智和をデータ分析面でサポートするなど、卓球のサポートにも力を入れている企業だ。より良い環境で日々の練習に打ち込む傍ら、江戸川区からの依頼でパラ卓球についての講演会を引き受けたり、T.T Laboでは子どもたちを対象にした車椅子卓球教室を開催するなど、精力的な活動を続けている。ただ、「軸はあくまでアスリート」と強調する。
「料理人時代におけるミシュランの星が、今ではパラリンピックでのメダルみたいな感覚ですね。一つ星が銅、二つ星が銀、そして三ツ星が金。24年のパラリンピックでのメダル獲得が目標ですが、まずは国際オープンでまだ獲ったことのない金を獲り、ランキングを上げたい。そしてパリパラに出場し、パリで働く料理時代の仲間に、卓球でも変わらず頑張っている姿を見せることができれば最高ですね」
趣味にも仕事にも、一度はまるととことん突き詰めて楽しんできた渡邊剛。48歳の今、部活で汗を流す高校生顔負けの熱さでラケットを握る渡邊は、アスリートとして伸び盛りだ。
(文中敬称略)
文=高部大幹
渡邊 剛 わたなべ・つよし
1973年7月24日生まれ、福岡県出身。中学で卓球を始め、高校時代に県大会出場。06年事故でせき髄損傷、車椅子生活に。12年秋から車椅子卓球を開始。14年パラ選手権ベスト4をきっかけに、翌年から国際大会出場開始。21年パラ選手権クラス3準優勝。スティガ契約選手
「People渡邊剛」は卓球王国2022年2月号にも掲載しています。
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