日本の男子卓球界で忘れてはいけない選手がいる。世界選手権のダブルスで3個のメダルを獲り、同じく団体では4個、世界選手権で合計7個のメダルを獲得した岸川聖也(ファースト)である。
彼は年が明けてから、胸の奥で様々な思いを巡らせ、心を砕きながら契約メーカーのことで迷っていた。
2002年に坂本竜介(現T.T彩たま監督)とともに中学3年の岸川聖也は海を渡り、ドイツへ向かった。当時、ヨーロッパでは最高の指導者と言われ、少年時代のプリモラッツ、ロスコフ、フエッツナー、サムソノフ、メイスなどを世界のトップ選手に育て上げたマリオ・アミズィッチに、その才能を認められた日本の少年が岸川だった。決して大柄ではなく、ぽっちゃりとした15歳。口数も少なく、余計なことは喋らないが、自分の意見ははっきりと言う。中学3年の岸川はそんな少年だった。
取材で彼が練習する『ボルシア・デュッセルドルフ』(ヨーロッパチャンピオンクラブ)や3部リーグの撮影に行った。こちらが何かを聞くと、小さな声で静かに答える。ドイツを離れるときにはボソッと「今度はいつ来るんですか?」と聞いてきた。今思えば、岸川少年は「卓球で絶対強くなってやる」という強い意志を持ちながらも、知らない土地で心細く、日本人と会うことに飢えていたのかもしれない。
岸川をサポートしたのは仙台育英学園であり、日本卓球協会ではあったが、マリオ・アミズィッチという名コーチをつけ、ボルシア・デュッセルドルフという最高の練習環境を与えていたのは、「バタフライ」ブランドを持つ日本のタマス社だった。タマスは当時も今も世界の卓球界ではリーディングカンパニーとして、ハイレベルの用具を製造し、選手に提供しているトップブランドだ。
卓球という競技において、ラケットという用具は非常に重要な要素で、ときには勝敗を分けることもある。その素材は木材をメインにするラケットと、その表面に貼るラバー。どちらも自然素材から作られ、トップ選手になるとわずかなゴム質、弾力、ラケットの反発を察知できるほど、選手たちの感覚は研ぎ澄まされている。
その中でも、タマスの用具は世界最強の中国選手たちからも絶対的な信頼を得ている。
2002年、タマスは用具提供だけではなく、ドイツにある現地法人「ヨーロッパ・タマス」の今村大成が、日本と連絡を取りながら日本の二人の少年の住環境を含め、世話をしていた。
仙台育英(坂本は青森山田学園)、日本卓球協会、タマス社。どれが欠けても、のちの岸川の成功のパズルは完成しなかった。当時から日本の若手がヨーロッパに行って強くなるのかと懐疑的な意見は協会内でも、指導者の間でもあった。それは卓球という競技の独特な部分で、用具同様にプレースタイルが多様なことと関係する。
1950年代に世界を席巻した日本の卓球。ペンホルダーというペンを握るようにラケットを持ち、片面でしか打球しないスタイルで、鍛え上げられた選手たちによるフットワークを使ったフォアハンド主体のプレースタイルが「日本スタイル」と言われた。
ところが、その後、ヨーロッパをはじめ、世界最強の中国もペンホルダーからシェークハンドのフォアとバックのドライブ(トップスピン)を同じように使う「両ハンドのドライブ型」に移行し、それが世界の潮流となっていた。
日本だけは、「同じシェークの、同じドライブスタイルでは勝てない。フットワークとスマッシュを見直すべきだ」という固定観念が強かった。
岸川と坂本がドイツで卓球留学をしていた時期の全日本選手権大会では、全国の指導者と日本卓球協会の強化本部が一堂に会し、「今後の日本の卓球をどうすべきなのか」という話し合いが持たれた。その席上で、多くの指導者から「なんのために若手をヨーロッパに行かせるのか」「ヨーロッパのコーチは日本選手を教えられない。彼らはフットワークも日本のフォハンドも理解できないのだから」という意見が飛び交った。
しかし、ドイツでの練習の成果はのちに成功の果実としてすぐに現れた。岸川がドイツに渡り、2年目からインターハイ3連勝の偉業を達成し、日本の中高校生の卓球を両ハンドスタイルに導いた。岸川が優勝しなければ、日本の若い選手たちはフォアハンド重視のフットワークに頼った非オールランド的なプレースタイルを継続させ、日本の卓球の現代化を遅らせた可能性がある。
そして岸川はその後、世界選手権の男子ダブルスで水谷隼と組んで、2009年と2013年に銅メダルを獲得し、混合ダブルスでも福原愛と組んで2011年に銅メダルを獲得。男子団体では主力メンバーとして4度のメダル獲得に貢献した。また2012年ロンドン五輪ではシングルスで準々決勝に進み、入賞を果たした。
水谷隼(木下グループ)というスーパースターの陰で佇む存在ではあったが、この20年間での岸川聖也の活躍は日本卓球界にとって大きな功績だった。
用具面で20年以上サポートしたタマス。一方、岸川にとって松下浩二(現VICTAS社長・前Tリーグチェアマン)の存在も大きなものだった。1993年に日本人初のプロ宣言をし、1997年に日本人で初めてブンデスリーガに挑んだ松下は、岸川にとって憧れの選手であり、松下がプロ宣言してから作ったマネジメント会社「チーム・マツシタ」に岸川も所属していた。
松下浩二が2018年Tリーグを作る時も「聖也は日本のために貢献した。ドイツで9シーズン戦った彼をTリーグでプレーさせたい」と公言していた。
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