世界卓球・ロンドン大会。女子団体準々決勝で、ルーマニアがフランスを3-1で下し、26年ぶりとなるメダル獲得を決めた。 ルーマニアの主軸、ベルナデッテ・スッチは、第4マッチでユエン・ジアナンをデュースの接戦の末に破ると、勝利の衝動を抑えきれなかった。左足を台にかけると、一気にその上へ。それを見たチームメイトたちも次々と台に飛び乗り、5人揃っての「台上セレブレーション」を披露した。
欧州勢や中国、韓国の選手は、時に喜びのあまり台に乗り、「俺(私)を見ろ!」と言わんばかりのポーズを決めることがある。かつて絶対王者と呼ばれた馬龍(中国)も、2015年の世界選手権個人戦で優勝した際、台に乗って雄叫びを上げた。
試合後にスッチは興奮しながらこう語っている。「もう、ものすごく興奮しました!本当にうれしいですし、自分のチームを誇りに思っています。あのお祝いのパフォーマンスについては、全く考えていなかったんです。自然とあふれ出てきたものでした。もちろん、メダルがかかった試合ですし、私たちにとって初めてのメダルになるので、簡単な戦いにはならないことは分かっていました。それでも、フランスにはこれまで負けたことがなかったので、私たちはとてもポジティブな気持ちで臨みました。
チームのみんなを心から誇りに思います。今日はメンタルを強く保つことが非常に重要でしたが、チームメイトたちがとても力強く戦ってくれました。その姿を見て、『私たちは困難な時でも助け合える最高のチームなんだ』と再確認できましたし、それが私自身の大きな支えになりました」
衝動的な台乗りと語る、スッチの喜びの声だった。
「道具に霊が宿る」日本独自の精神性
日本選手が台に乗るパフォーマンスをすることはまずない。
なぜだろうか。
日本の選手は幼少期から、部活動やクラブチームで「台をきれいに拭く」「道具を丁寧に扱う」ことを徹底して躾けられる。古風な言い方をすれば、柔道家が畳に入る前に一礼し、野球選手がグラウンドを跨ぐ際に一礼するように、スポーツの場を神聖なものと捉える作法が根付いているのだ。
かつては「卓球台には魂が宿る」という価値観を持つ指導者も多かったと聞く。時代が流れても、日本人にとって卓球台を「踏みつける」ような行為は、心理的な抵抗が極めて強いのである。
一方、欧州や他のアジア諸国では、卓球台をあくまで「消耗品」や「単なる木材の板」と割り切る傾向がある。 以前、『卓球王国』で欧州取材の記事を掲載した際、選手が台に座ったり、縁に足をかけてシューズの紐を懸命に結んだり、ペットボトルを台上に置いたりしている写真を使用したことがあった。すると、日本の高校の指導者から「教育上よろしくない。あのような写真は掲載しないでほしい」と厳しい意見が寄せられた。
もしその指導者が、今回のルーマニアの歓喜の瞬間をテレビで見ていたら、即座にリモコンのスイッチを切っていたかもしれない。

この晴れやかな写真を見ても、日本の卓球ファンの多くはその「幸せ」を共有できないのではないか。共有できたのは「紅双喜」の卓球台は相当に頑丈な作りだということ
「神聖な舞台」か「ただの板」か
ただし、こうしたパフォーマンスには物理的な危険も伴う。
世界選手権や五輪で使用される特注の卓球台は、脚部が堅牢な造りになっているが、学校やクラブにある一般的な卓球台は、人が乗ることを想定して設計されていない。台が傾いて水平を保てなくなったり、脚部が破損して大きな事故につながったりする恐れがある。「良い子の皆さんは決して真似をしないように」と付け加えておきたい。
日本の卓球台の寿命が諸外国より長いのは、こうした「道具への畏敬の念」があるからだろう。 卓球台を「神聖な空間を構成する主役」と見るか、単なる「厚めの板」と見るか。その価値観の差が、勝利の瞬間のパフォーマンスに対する「好感度」の差となって表れるのである。
ツイート