卓球王国 2024年10月21日 発売
バックナンバー 定期購読のお申し込み
全日本卓球2022

波乱の聖地。だけどちょっと待て。「全日本」の聖地はなぜ千駄ヶ谷なのだろう

1982年度の全日本選手権男子シングルス決勝、斎藤清(向こう側)対糠塚重造の試合。旧東京体育館で開催

 

さて、話を変えて、今や卓球の聖地とも言える東京体育館について触れてみよう。

大会に参加する選手たちは「全日本」というと、東京の千駄ヶ谷の「東京体育館」を思い浮かべる。東京駅から10分足らず、新宿からも数分、駅の改札口を通れば、目の前に卓球の聖地が現れる。

しかし、聖地と言っても毎年のように東京体育館で全日本選手権が開催されるようになったのは古くはない。1979年(昭和54年)だ。

第二次世界大戦後、昭和21年度(1946年度)の全日本は兵庫県の宝塚、その後、名古屋(愛知)、横浜(神奈川)、諏訪(長野)、高松(香川)、京都、徳島、横須賀(神奈川)と東京ではなく、全国を転々としている。戦後の東京開催は昭和30年度(1955年)が初めてとなる。

翌年の1956年に世界選手権東京大会が旧東京体育館で開催されているので、前年の全日本は予行演習の大会だったのだろう。

その後、昭和41年(1966年)から名古屋で開催され、東京と言っても墨田体育館や駒沢体育館、東京武道館で開催されたこともあったのだ。

1977年世界選手権バーミンガム大会で河野満が優勝して、最後の全日本、優勝して引退した全日本は駒沢だった。今では想像できないが、体育館に暖房はなく、観戦する人は厚手のコートを着て試合を見て、選手たちも厚めのジャケット(当時はダウンコートがない)を着込んでコートに入る状態だった。

翌1979年(昭和53年度)1月も駒沢で行われ、男子シングルスで高島規郎、女子シングルスは嶋内よし子が優勝して、1979年12月の昭和54年度の全日本は旧東京体育館で行われ、高島の2連勝、女子はアンチラバーを駆使した和田理枝が優勝している。

旧東京体育館は現在の東京体育館とは場所は同じだが、全く違う外観と内観だった。照明は弱く、コートの何メートルか上には裸電球がぶら下がっていた。床は木製ではなく、硬化ゴムのようなフロアで気温が下がれば、滑りやすくなる。

その後、東京体育館から駒沢体育館・代々木第二体育館に移った。これは大会の前半は駒沢体育館で行い、後半のベスト16からの試合を代々木第二で行うという変則方式。今なら、選手たちからクレームが入るだろう。なぜなら気温の低い駒沢と暖房付きの代々木では照明も含めて、あまりに環境が違いすぎるからだ。ラバーの状態も違うために駒沢と気温が高い代々木ではボールの弾みも全く違うものだった。

現在の東京体育館で全日本が再開されたのは2004年1月、平成15年度から。その後は2014年世界選手権の予行演習を兼ねて、2013年1月に代々木第一体育館で行い、東京五輪のための改装のために大阪で3年間開催されたが、今年、全日本の聖地に戻ってきた。

卓球選手にとって、目指す地は「千駄ヶ谷」である。

今年は土曜日と日曜日は制限付きで有観客となったが、来年こそは満員の観客の中で聖地での全日本を迎えることができるのだろうか。(今野)

全日本の聖地、東京五輪も開催された東京体育館

 

 

関連する記事